登山道に依存する登山者、利用する登山者
私は目先の利害にからんで、登山道の破壊ということには神経質になっている。
もともと、私の登山技術は「登山道からはずれない」ということを大原則としている。登山の技術体系でいえば「アプローチルート」に限定した行動だ。だから本格的登山という領域を上に重ねれば、そちらは基本的に登山道に依存しない活動になる。
昭和30年代の国民総登山家時代には「登山の矮小化」「登山のゲレンデ化」としてさげすまされた立場ではないかと思う。深田久弥の『日本百名山』だって、当時は(そしてたぶん今も)先鋭的な山のグループの中では「フン!」とあざ笑われる対象ではなかったかと思う。
ちなみに深田久弥の「日本百名山」は1940年(昭和15)から朋文堂の雑誌「山小屋」に10回連載されて20山ほどで中断したが、戦後1959年(昭和34)から同じ朋文堂の雑誌「山と高原」に50回連載して百山を書ききり、還暦の1964年(昭和39)すなわち東京オリンピックの年に新潮社から単行本として刊行され、読売文学賞を受賞した。
深田久弥は日本有数の山岳地図の収集家であったから最先鋭のヒマラヤニストたちがたくさん出入りしていたけれど、登山家というよりはやはり作家であり、山岳エッセイストであったといえるだろう。
深田久弥は『日本百名山』のあとがきで「付加条件として、大よそ1,500m以上という線を引いた。山高きをもって尊しとせずだが、ある程度の高さがなくては、私の指す山のカテゴリーには入らない」と書いているが、ほとんどは登山道をたどって登る山だった。
すでにお分かりかと思うが、登山者がみな登山道に依存しているわけではない。アプローチの時間短縮のために登山道を単に利用している人たちも多いのだ。
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| ■北岳大樺沢ぞいの道 ― 2001.8.24 この場所で小規模な崖崩れがあったらしい。倒れた木を、山小屋のスタッフらしい若い男女が片づけていた。もちろん必要なら手伝ったが |
大学時代の私のクラブは無雪期の知床半島縦走というのをテーマにしていたから、あの背丈を超えるハイマツを勝手に伐って道ツケをしたりした。
東京オリンピック後のその時期には自然保護という概念がかなり浸透してきていたが、その前の10年間に、日本中の山に新しい道が(勝手にどんどん)作られて「○×新道」などという名前がつけられた。そこまでいかなくても「○×ルート」なら尾根にしろ沢にしろ、あるいは名だたる岩壁にしろ、ほとんど無数につけられた。「道ツケ」という言葉が、登山技術の中で重要な位置をしめている時代があったのだ。
登山技術の体系においては、登山道を利用するということがかならずしも「前提」ではないということが、じつは「登山道の保護」に思わぬ影響を与えている……ということを指摘しておきたい。
