コースタイムという作文
いま、登山道には距離表示が増えている。「あと2km」とあったとき、一般の人は何分と予想するだろうか。私が提案するシミュレーションマップでは、日本の登山道の標準的な姿を「30度の斜面に20度のジグザグ道」と想定している。その場合の速度係数を「1時間に高度300m登る」として「時速1km」と概算する。その場合「あと2km」は標準的な登山道なら2時間ということになる。
平地を時速4kmで歩くエネルギーで一般登山道を歩くと水平距離では時速1kmとなり、垂直距離では時速300mになるという「1時間モデル」を提案して、歩く人の力量と、道の形状によって係数を変化させる提案をしている。
登山道の標識にはまた、所要時分が書かれている場合が多い。おおざっぱにいって……だが、古い標識は新しい標識より所要時分が短いはずだ。これはガイドブックやガイドマップのコースタイムも同様で、同じルートで新しいものはいくぶん長めの時間を表示してある。
理由ははっきりしている。かつてコースタイムは健脚基準だった。地元の登山会の人たちが、外の人たちに「恥ずかしくないタイム」として算出した数字と考えてよかった。だからコースタイムで歩けたら健脚というそれなりの了解が登山者にもあったと思う。
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| ■丹沢・塔ノ岳 ― 1997.5.25 |
| 塔ノ岳から丹沢山へと向かう稜線に崩落が進行中の部分がある。丹沢は若い山なので浸食が激しく、このような場所があちこちにある。 |
1980年代から中高年登山のブームが始まると、その種の健脚派コースタイムの1.5倍で見積もるという「常識」が一般化しはじめた。「1.5倍」という係数を掛けて補正すれば、それはそれで実用化できた。
ところがそれではすまなくなった。ガイドブックやガイドマップが中高年登山者向けに編集されるようになると、コースタイムは「1.5倍」型になっていく。当然の流れとして登山道の表示の中にもそれが入り込む。かくして登山道の所要時分表示は標準性を低下させてしまったといえる。
もうひとつ問題があった。かつて私は毎日新聞社が刊行した『日本の大自然』(全29巻・1993.3〜1995.8)で28の国立公園にかかわる物語を連載したが、第16巻『秩父多摩国立公園』(1994.8)ではこの、コースタイムの問題を扱った。
例にとったのは奥多摩の高水三山。比べてみたのは(1)山と溪谷社・アルペンガイド『奥多摩・奥秩父・大菩薩』、(2)東京新聞出版局・岳人カラーガイド『奥多摩』、(3)日地出版・登山ハイキング地図『奥多摩』、(4)昭文社・山と高原地図『奥多摩』、(5)日地出版・地球の風『奥多摩・大菩薩』、(6)日本交通公社・JTBポケットガイド『奥多摩・秩父』、(7)弘済出版社・ニューガイドトップ『奥多摩・秩父』、(8)日本交通公社・新日本ガイド『武蔵野・秩父・多摩』、(9)聖岳社『奥多摩絵図』の10種。
結論からいうと、(7)の旅行ガイド以外はコースタイムは一致していて、JRの軍畑駅から高水山→岩茸石山→惣岳山→JR御獄駅が3時間45分(8)の新日本ガイドは10分単位の表記によって3時間50分)となった。
そのとき、ただひとつ違ったコースタイムというのは4時間35分。ほぼ20%増しとなっていた。奥多摩の中でも高水三山は入門編の山としてポピュラーだ。だからファミリー旅行向けで登山とはあまり関係のない(7)ニューガイドトップ『奥多摩・秩父』でも扱ったのだろうが、最初の登りと最後の下りに時間を足している。しかし、それ以外のすべてがまったく同じコースタイムというのは薄気味悪い。
なぜ同じなのか。そこで各ガイドのコースタイムの規定部分を読んでみた。
| (1) | 山と溪谷社・アルペンガイド『奥多摩・奥秩父・大菩薩』の場合 ―― コースタイムは、該当コースに必要な装備一切を携行して歩いた際の、標準的な所要タイムで、休憩や食事に要する時間は一切含まれていません。コースタイムは体力、経験のほか、その時々の天候や体調に左右され、さらにコースの混雑度、パーティーの人数によっても差が生じます。とくに高齢の人は、本書コースタイムの5割増を目安として計画されるようお勧めします。 ―― |
| (2) | 東京新聞出版局・岳人カラーガイド『奥多摩』の場合 ―― コースタイムは一応の標準時間を記載した。この中には休憩時間は含まれていない。荷物の重量や天候、子供連れなどの条件により大幅に異なるので参考程度にしていただきたい。―― |
| (3) | 日地出版・登山ハイキング地図『奥多摩』 ―― コースタイムは夏山晴天時2〜3人のパーティー(休憩を含みません)の標準記録です。したがって休憩・個人差など考えて行動して下さい。 ―― |
| (4) | 昭文社・山と高原地図『奥多摩』 ―― コースタイムは、時期や天候によるコース状況、パーティ構成、体力または疲労度などによってかなりの差異が生じます。あくまで参考として、十分に余裕をもった山行計画をお立てください。 ―― |
凡例を見比べる限り計算されたコースタイムが同じになる気配はないのに、ドンピシャ同じということは、どれかがオリジナルでどれかが孫引きということになる。「標準的な所要タイム」とか「一応の標準時間」、「あくまで参考として」などの前提まで、疑わしくなってくる。
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| ■前日光・石裂山――1997.9.13 |
| 石裂山(897m)の石裂は「おざく」と読む。日光に連なる修験の山でおどろおどろしいのだが、行くたびにクサリやハシゴが整備されて危険はほとんどなくなった。 |
じつは1983年以来長く中高年登山の仕事でご一緒させていただいた山岳写真家の内田良平さんが、ガイドブックのコースタイムの計算法を著書で明らかにしている。それは水平距離1km=15分(時速4km)をベースにして、急な登りには高度100mに対して20分、標準的な登りには15分、ゆるやかな登りには10分を加える……というもの。下りはゆるい登りと同じに高度100mに対して10分を加える。
内田さんは写真家なので、いい風景があれば撮影に入る。背負っている荷物だって一般の登山者とはちがう。標準としてのコースタイムなどでは歩いていない。
もしそれがガイドブックの取材のための登山だとしても、コースタイムで歩くなどとは考えられない。当然、できる限り速く歩いてルートを1本でも多く調べたいと考えないプロはいないはずだ。
要するに、ガイドブックのコースタイムは作文なのだ。内田さんは正直な人だから、作文の根拠をどうしてもあきらかにしておきたかった。
内田さんのコースタイムはしたがってオリジナルデータと考えていいのだが、そのように計算の根拠をあきらかにしたものを私はほかに見つけられなかった。

