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■佐渡・金北山直下の雪渓で ― 2006.5.10

前日はアオネバ登山口から登ってシラネアオイとカタクリの大群落を堪能、この日は沢口登山道を登ってカタクリとオオミスミソウに感嘆の声を上げ続けたのだが、最後のところに想定外の大雪渓が残っていた。軽アイゼンの用意が少なく、かろうじて突破。計画を変更してすなおに下った。 |
私は「偵察をしない」といったが、それは偵察と本番はまったく別物という認識があるからだ。偵察をして一定の「安全」を確認してもそれは本番での「安全」を担保するはずはなく、それでは偵察は本番とどう違うのかと考えると私にはわけがわからなくなる。
昔、何かの仕事で植村直己さんを訪ねたことがあった。日本山岳会隊でのエベレスト登頂が終わって、文藝春秋社に泊まり込んでいたときではなかったかと思う。簡単なお使い仕事が終わって、個人的な質問をした。ちょうど法政大学の探検部が最上川の川下りで死亡事故を起こした後だった。アマゾン河を下った植村さんに「事故防止のマニュアルを作ろうと思っているんです」といったのだ。
答えは想定外のものだった。「マニュアルをつくっても事故はなくならない」というのだ。「行動はすべて本番でなければいけない」というのが植村さんの本意。マニュアルごときで事故の芽をすべてつぶせるなどと考えるほうが危険思想だというのだ。
偵察と本番のあやうい関係については感じていたが、それがマニュアル不要にまでつながるとは考えてもいなかった。以来、私は徹底的に本番主義なのだ。
本番主義は、簡単にいえばぶっつけ本番。徒手空拳という意味だ。なんの下準備もなく、情報もないまま山に入っていくということをベースと考える。
識者が「無謀」と考える状態だ。
これは旅行で考えるとわかりやすい。東西冷戦時代には警察や軍隊によるスパイ容疑には細心の注意を払わなければならなかったが、世界はあんがい安定していた。地球が時計表示で破滅まであと数分とか数秒という危険なときに、もっとも平和的繁栄を謳歌していた日本のように、大きな危険の中に奇妙な安定が存在していた。
その時代でも、危険な場所はたくさんあった。大都市の裏町の安宿などは現地の同胞にいわせればもっとも危険な場所だったし、観光地の中級より上のホテルで日本人観光客の泊まるところは、ひとり旅の人間にはすごく危険な匂いがした。うぶな日本人旅行者をねらうプロがうようよしているように見えたものだ。
世界を歩けば危険はいくらでもあるのだが、最後には、地元の人の反応を素直に受け止めることで、自分におよぶ危険があるかないかを察知する努力がもっとも重要だと思うようになる。その反応は、もちろんジーパンをはいた場合と、ネクタイを締めた場合とでは全く違う。
もう一例、1974年にカナダからアラスカへユーコン河を3,000kmカヌーで下ったが、その最初、カナダユーコン準州の州都ホワイトホースで銃を持つべきかどうか大激論したことがあった。
ホワイトホースのキャンプ場で準備していると、やってくる連中がみな、グリズリーベアだの、オオカミだのの危険を心配してくれた。
銃を持つか持たないか、持つなら何にすべきか激論したのだが、私の主張をとりあえず通して、通過する村々で猟師が銃を持てといったら、そこで分けてもらって、撃ち方もみっちり教えてもらおうということでスタートした。
結果的に、3か月の間、だれからも丸腰の不安を指摘されたことはない。……ないわけではない。カヌーをもやうときにはビーバーにロープをかじられても流されないように注意しろと教わった。
情報は東京とホワイトホースではあまり違わなかった。ホワイトホースは夏には南の都市から大勢の労働者と放浪者が集まってくる。野獣に対する恐怖の大きさは変わらない。
日本の登山者がツキノワグマを本当に怖がって鈴を鳴らしている滑稽さと同じことだ。鈴を鳴らすようにすることは、もちろんいいことだ。うかつに登山者に見られたら、危険な山だとか騒がれて駆除される危険がある。自然保護的にいえば、無知な登山者にクマの姿を見られないようにすべきなのだ。
また本題にもどすと、まったく無知な状態で山に入ることを前提とすると、安全管理の一番の基礎は行き止まったら引き返す技術があるかどうかだ。
そう考えると、登りながら「下りだとたいへんだね」とかその逆を感じている登山者ほど危険な存在はない。登ったところは下れる、下ったところは登れるということを基本技術としない限り、行き止まりから脱出できない。
どこを「行き止まり」とするかは自分自身で判断する。他人から見ればなんであそこで? という場所で行き止まっても、かまわないのだ。
それを、しばしば、「初級ルートだから」とか「上級ルートだから」という自分にはまったく関係のない基準によって判断しようとすると、いつかその情報によって裏切られる。
しかし「行き止まり」を的確に見つけることがはたして自分自身にできるかどうか?
的確になど判断できるわけはない。いつの場合でも正解はない(結果を正解にする行動はありうるけれど)。
ではどうすればいいのか。
工学設計の姿勢にフェイルセーフという考え方がある。なにかひとつ不具合が出てもそれを補う回路を用意するなど、二重、三重の安全性を備えることだ。
山の中での「行き止まり」は、たとえば登攀不能な絶壁がそそりたっているというようなイメージがすぐに浮かぶが、そういうことは基本的に想定外だ。一般登山道を歩く限り、むずかしいか、やさしいかしかない。ホリエモンの名文句「想定内」を活用させてもらえば、想定内が続く限り「安全」なのだ。
しかし想定外に属するものがいくつか重なってくる場合がある。
初歩的なところでいえば、地図を持っていない、ガイドブックを読んでいない、雨具がないのに雨模様になってきた、疲れたメンバーがいる、水が心細い、いやなクサリ場がでてきた、そして時間が押している……などなど。
想定外として数えるには小さなことかもしれないが、そのひとつひとつをきちんと数え上げているうちに、「あとひとつ重なったら余裕幅がなくなる」という一線が見えてくる。
もちろん人によってその見え方は違うから、行動の最終決断をするリーダーの場合であって、口うるさい小姑や、経験豊富と自他共に認める先輩ではなく、リーダー自身の「余裕幅」だ。
そこのところがはっきりしてくると、「想定外」がもうひとつ重なったところで、自動的に引き返すことになる。なぜそうなったかの反省は下山してからゆっくりやればいい。たいてい、チームの基本的な問題が洗いざらい飛び出してくる。
「引き返す勇気」というのはしたがって、危険(技術力と対応する)より恐怖(想像力に属する)に基づく判断としかいいようがない。クマのいないところで鈴を鳴らす滑稽さは、それが恐怖に由来するからだ。そして恐怖ほど「突撃する勇気」と直結しやすいのではないかと思う。
誰がなんといおうと進むも退くも自分で決める。その頑固さによってしか自己責任ということは考えられない。それよりもまず、自分の実力を現場で確認しながら成長するという着実な進化を自分のものにしたい。
判断を誤らないということはありえない。たくさんの失敗を余裕幅のなかで経験する権利をリーダー(や単独行者)はもっていて、周囲に見えるか見えないかの小さな失敗によって賢くなっていくのだと私は考えている。
「引き返す勇気」や「勇気ある撤退」など、百害あって一利なしだと、大山三峰山で看板を見るたびに思い直している。
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