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もし、現実に事故が起きたら、その事故の原因と考えられる事々はいくつも出てくるはずである。
事故が起きれば、そこには必ず原因がある。そのとき原因として数えられるひとつひとつは、事故が起きない場合にもそこにあって、「たまたま」か「予想どおり」か、事故に直接つながらないだけなのだ。
いくつもの危険因子が登山道のあちこちに存在するのに事故になったり、ならなかったりするのは、いわば病気と同じだ。空気中には無数の病原菌がいるし、水や食べ物にもいる。しかし病気にならないのは体内に入っても生存できないか、生存できても力を発揮できないから。花粉症だのアトピーだの、アレルギー性の病気の多くは、外界の危険因子が多すぎるということに大きく由来しているはずだ。人によっては空から降り注ぐ紫外線も同様の危険因子になるのだが、それらを避けるとか、それらにうち勝つとかいったって、結局は強弱、バランスの調整にゆだねられるにちがいない。
山の危険も察知するだけならほとんど無数に存在する。だから経験と技量によって危険因子をせいぜい「障害因子」程度にまで押さえ込もうとするし、岩や滝の登攀では「危険」を前提としたところからの安全対策を施していく。
谷川岳が800人以上の優秀な登山家の命を奪ってきたのは、圧倒的な危険因子のなかで登攀を成功させようとしたチャレンジの結果だった。危険因子を限りなくゼロにしたい人は、下から見上げるだけにしておくべきだ。
登山者がセンサー能力を引き上げようとすると、それは同時にアクチュエーター(実行部分)の能力との切磋琢磨を求めることになる。最初に「できない」と考えられていたことができるようになると、センサーは新しい数値によって動き始める。
一般のスポーツであれば条件を統一して、記録や勝敗が残るように工夫される。ところが登山では初登(だれが最初に登ったか)以外はきわめてランクの低い記録としかならない。登山道から踏み出さないという私の登山領域は「初登頂」をめざす登山家の行動領域からすればアプローチルートにすぎない。つくられ、整備された道をたどるだけだから、「初登」もへったくりもないわけだ。だから各種の「百名山」を必修単位化することによって「記録」にとどめようとする人も出てくる。コレクションという評価基準の導入だ。
結果重視の「どこへ登った」ももちろん大きな励みだし、「登れるうちになんとか槍へ」と考えるひとには目標として大いに利用していただきたいが、「リーダー責任」という役割を意識した瞬間から、「どう登るか」という側面が価値を増大させてくる。
私がこの連載の最初に「単独行」を考え、ここで「リーダー役」を考えるのは、登山者が自分流の歩き方、登り方の限界値を見いだすところまで進化するのに重要な課題ではなかろうかと考えているからだ。
正規の「リーダー」になるにはまず所属するグループがあって、その中心で働いて、メンバーの信頼を得、志を立てて立候補する……というような社会的活動が求められる。しかし「リーダー役」なら自分ひとりで成立する。もともと単独行そのものにリーダーとメンバー(フォロアー)の両方にまたがるものを要求されている。その中のリーダー的要素を意識することによって、自分自身の能力を内側から向上させる効果を発揮させることになる。たとえば(いささか強引に)リーダーをセンサー能力、メンバーをアクチュエーター能力と考えてみればいい。
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