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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

佐渡島(3) text&photo Fumihiro Funaki 2007年3月21日更新

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(続)青野季吉の著書で知る佐渡の自然と人

青野の生地は佐渡文化三態の枠組みをこえる特異な地域

3月14日(2006年)琉球新報のホームページが伝えるところによると、昨年8月20日に沖縄の久米島で放流されたアカウミガメが、なんと2000キロ離れた佐渡島で3月7日に発見され、3月10日無事に宅配便(!!)で久米島ウミガメ館に戻されたという。

「7日の朝、カレイの漁に出ていた佐渡の漁師さんが、刺し網に掛かっていたところを発見したんだって。“RETUERN KUMEJIMA JAPAN”と書かれた標識がついていたそうだ。それですぐに漁協に連絡して、久米島と連絡をとったんだね」
「ずいぶん遠いところまで泳いできたのね。アカウミガメって寒い海にもいるの?」
「いや、記事によると通常は太平洋を回遊して成長するんで、2000年からこれまでに400匹以上を放流したけれど、新潟や秋田の日本海では死骸しか発見されていないそうだよ」
「じゃあ、奇跡的なことなのね」
「200日、2000キロの旅、寒い北の海、孵化して1年後体重300グラムの赤ちゃんウミガメにとっては難儀だったろうなあ」
「どうして航路を間違えたのかしら?」
「それがさ、いままでもあったことで初めてというわけではないが、非常に珍しいことだよね。原因は暖冬のせいではないか、と推測する人もいる」
「なるほど、そういうところにも暖冬の影響はあるのね。でも、暖冬だから死なずに保護された…」
全国的な暖冬に不安を抱く人も多いなかで、ウミガメが暖冬を触媒にして佐渡島と沖縄久米島を結んだという心温まる話である。


金北山を湖面に映す加茂湖。周辺をぶらつくと吟遊詩人のような気持ちになると青野さんはいっている
真野湾
深く考え込むような心境になるという真野湾

前回に引き続き、青野季吉さんの著書「佐渡」(佐渡郷土文化の会刊)に沿いながら佐渡の人と自然を探ってみたい。前回引用しなかった部分だが、加茂湖と真野湾の風景の違いについて彼はこういっている。


佐渡最古の金北山を額縁に入れて眼前に掛け、その床に大きな水盤を置いたような、まわり四里の加茂湖は、明るくって、閑雅で、静かに歌っているようであり、同じ金北山の遠く霞んでいる真野の入り江は、何か暗くって、荘重で、深く考え込んでいるようだ。加茂湖を詩人とすると、真野の入り江は哲人だ。


「30年ぶりに訪れた故郷で青野さんはあらためて佐渡の自然の良さに浸っているようだね。ところで、青野さんは真野湾の北の隅に位置する港町、沢根で生まれた。ここはいわゆる佐渡島の“文化三態”でいえば、地理的には武士的要素の強い相川文化に属する。しかし、小木港に出入りする船の何割かは沢根にも出入りしたし、上方相手の船の持ち主もいたりしたので、上方町人文化の影響も受けていた。そして国仲地区の貴族的な要素も入っていたのだが、峠ひとつで隣り合う相川の文化はほとんど入ってこなかった、という特異な町であったようだね。
真野に向かう道
妙宣寺付近の真野の風景

地図で確認すると、なるほど沢根は相川地区の南はずれにあり、国仲平野の西はずれにある。小木とは大きく海を挟んで離れているけれど、共通の船が出入りするのだから距離は無視できる範囲にある。どうやら青野さんの生地、沢根は佐渡文化三態の分類からはみ出す番外地といったイメージのようだ。彼自身はこんなふうに説明している」


私の生家はそうした沢根の性格を代表していた形であった。一方に上方通いの和船を持っていて、上方文化の輸入問屋のような性質を帯び、他方には国仲に田地をもっていて、そこの小作人などとの交渉があり、私の母は国仲の竹田という村の出であった。この村は日野資朝卿の遺趾の壇風城趾や、冷泉為兼卿の配所といわれる八幡や、順徳院のお供をして来島し、後に日蓮の帰依者となった遠藤為盛の開いた阿仏房妙宣寺などの近くにあった。


「青野さんのご実家は羽振りがよかったんでしょうね、きっと」
「うん、年譜によると、酒造業、廻船問屋を営み地主を兼ねた家、とあるから裕福だったのかもしれないね。しかしその後、次第に家業は傾いたとある。彼は2歳の時に近隣の貧しい漁師夫婦に預けられたそうだ。そして、実母ヒサは4歳の時に亡くなり、6歳で父の半五郎も失った、というから小学校に入る前に両親と死に別れるという気の毒な子供だったんだねえ。この幼少時代の境遇は後の彼の思想に大きな影響を与えただろうね」
「ずいぶん可哀想な子供だったのね」
「でも、読んでいる本からは、少しも貧しい、辛い、という印象を受けない。実に淡々と思い出を語っている。たとえば、こんな具合だ」

阿仏房妙宣寺仁王門
茅葺の屋根が見事な阿仏房妙宣寺仁王門

私の家の持船は、当時千石船といわれた和船で、主として米類を積んで、上方(大阪)へのぼり、そちらからは、塩、砂糖などを始め、食料品や雑貨類を積んで、島へ帰った。
往復は、春船、秋船といって、たしか年2回だったと思うが、はっきり記憶にない。船が無事に帰航を続け、越中伏木あたりから電報が来てから、湾口の水平線はるかに白帆が見えるまで、私の家では気が気でなかった。ひき出しの古風な四角の長い望遠鏡を持ち出して、小供たちまで毎日沖を凝視め、家標を染め出した白帆がレンズに入るのを待ちに待った。いよいよ船が近づくと、家の中は晴れ晴れして、ほとんど町じゅうの人々が「こんにちは、おめんとう(おめでとう)と、挨拶に来た。


「まるで実際の様子が目に見えるようね」
「家の扱い商品の中に染料の藍玉があってね、大阪の問屋から集金と次の年の商い量を決めるために、担当者が年に一度やって来たんだそうだ。青野さんの家ではその人のことを“藍玉さま”といって大いに歓迎したらしい」

藍玉さまが島内の染物屋を集めて、値建てをする日は、私の家ではお祭りのような騒ぎであった。藍玉さまもまた、大阪商人はこういうものだといった風に、豪勢に振舞った。藍玉さまの廻ってきたのは、春のはじめ頃だったと記憶するが、染物屋一統にはいうまでもなく、私たちにまで、大阪の珍しい土産物を用意し、まるで福の神を迎えたようであった。私の少年の頃に毎年来た藍玉さまは、肥った、大柄な、目の細い、義太夫の大夫のような恰好の四十男で、その上方風の一挙手一投足に、私たちは見知らぬ大阪の美しい夢をさぐった。

「まるで映画のワンシーンを見るようね」
「貧しい、苦しいって感じは受けないよね。彼は6歳で両親を失っているから、この思い出は6歳以前のもの、ということになる。私も4歳ごろから断片的に記憶があるけれど、この藍玉さまの話のように鮮明にイメージが残るのは、よほど強い刺激があったからだろうね。それが一年でいちばんの楽しみだったんでしょう」
「それ以外の日常が霞んでしまうぐらいに強かったんでしょうね」
「港に戻ってくる船を待つ気持ち、藍玉さまを通して夢見る大阪という都会…」

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