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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

奥尻島(2)  text & photo Fumihiro Funaki 2007年10月4日更新
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いつまでも忘れないでいよう、奥尻島の地震被害を!

津波館と時空翔、そして西海岸の夕陽

「時空翔」の丘からみた「奥尻島津波館」

「奥尻島津波館」は、北海道南西沖地震の災害を記憶し、教訓とし、さらに全国から寄せられた復興支援への感謝を表するための記念館である。多くの人は大きな災害には、驚き同情し、支援活動に積極的になるのだが、残念ながら人は“非常に忘れやすい”動物だ。そして災害はたいてい、忘れた頃にやってくるのである。そのためにも、このような記録と感謝を込めた記念館は必要だろう。本当はまだ地震に遭遇していない地域にこそ必要なのかもしれないが。『島のてっぺん〜』をもう少し引用しよう。


……丘への階段に50年配の女性が座っていた。「何も持たずに逃げた」。ここに家があったんだという。「裸で逃げた。あれ持とう、これ持とうとした人は流された。秋田沖地震の経験があったから、あれより揺れがひどかったから」。日本海中部地震(1983年)のことである。津波警報以前に津波が来て、秋田県下などで104人が死んだ。

奥尻島津波館内の通路脇には、いろいろな地震災害を表すオブジェが置かれている。これは金属の曲面と鋭い輪郭で凶暴な津波を表していると思われる

7月はイカ漁のシーズンである。男たちは島の周りの海へ出ていた。夜、船に照明を満艦飾でこうこうとつけて漁をする。ばらばらになった家の柱につかまって流されて、そんな船に助けられた人もいる。

今、この漁村は何もかも新しくなった。かさ上げされた防潮堤が、高い塀の中に島を閉じ込めたように、ぐるりと岸を巡っている。海岸を走るバスの中から海が見えない。……


「時空翔」の丘に向かう階段。ここを上がると視界いっぱいに震源地の南西沖が広がる

災害の記憶を風化させないこと、その犠牲者の悲しみ、悔しさを忘れないこと、そのためにこの「奥尻島津波館」があり、すぐ隣に「時空翔」という慰霊の丘があるのだ。

地震の起こった7月12日に、丘の上の黒御影石の前に立つと(踏み台がある=写真参照)その中央に刻まれた窪みの延長線上の海に太陽が沈むという。その海は震源地の南西沖である。

慰霊碑の形そのものは「心と海と翼」を表現し、下部の傷状の線は波しぶきを表しているのだそうだ。丘の上部周辺をぐるりと取り巻く壁には、「北海道南西沖地震 奥尻町震災物故者諸精霊位」とあり、張り付けられた黒御影石に198名の犠牲者の名前が刻まれている。

また、石碑の右手前には四角い黒御影石が置かれて、ここに天皇陛下御製が刻まれている。


   壊れたる建物の散る島の浜
         物焼く煙立ちて悲しき
  

この御製碑建立の由来についても石版に刻まれている。


巨大な黒御影石の慰霊碑。7月12日の夕陽は中央のくびれの延長線上に沈む

平成5年7月12日午後10時17分発生の、北海道南西沖地震災害により奥尻町では壊滅的大災害を受け多くの被災者が呆然自失の状態で避難所生活をする折、平成5年7月27日、天皇皇后両陛下が被害にあった島民を慰め励まされるため奥尻島を訪れ、復興に向け頑張る意欲を与えて下さいました。

その後、平成6年の新年において奥尻島というお題のもとにお見舞に訪れられた際の、お心をお詠みになられました御製を末長く後世に残すため、御製碑をこの慰霊碑広場に建立いたしました。

平成10年7月 揮毫者 小山青峯 建立者 奥尻町


さらに、奥尻島出身の詩人・麻生直子さんの詩「憶えていてください」が刻まれた石版も中央やや左に置かれている。


 憶えていてください/青い潮風の海辺の町で
 すこやかな心とからだをもった人びとが
 ていねいに生きていた一日一日を

 一瞬の大地の鳴動が/破壊つくしたあの夜の津波の怖ろしさ
 連れ去られた家族たち/かなしいその光景に失意して
 未来を拒んだりしないでください
 (以下略)
  

「時空翔」の丘から海をみやると、そろそろ夕焼けに地平線が赤く染まり始めている。何事も起こるはずがないような、静かな海である。1993年7月12日の夕方も海も、このように穏やかであったに違いない。そして数時間後に……。

「時空翔」の前に広がる南西沖の海。そろそろ夕陽に赤く染まり始めている
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