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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

隠岐の島[島後・西ノ島・中ノ島・知夫里島](11)  text&photo Fumihiro Funaki 2008年6月19日更新

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緑に包まれ青い海に囲まれた歴史と神話の島、島後(3)

隠岐郷土館〜隠岐産黒曜石と縄文時代の海路

水若酢神社となりの隠岐郷土館。明治初期の洋風建築だが隠岐独特の工夫もある。正面左の案内所のような小屋に、黒曜石の解説、からむし2世号の記録などが掲示されている

水若酢神社のすぐ東に隣接して、赤い屋根に白い壁の明治期洋風2階建て建築がある。この建物は、現在は「隠岐郷土館」となっているが、元々は1885(明治18)年に郡役所として西郷町に建てられたものだ。1968(昭和43)年に新庁舎が建築されることになり、五箇村が明治百年記念事業として、この建物をここに移築し復元した。町村合併により現在の住所表記は、島根県隠岐郡隠岐の島町郡749-4となっている。

案内小屋の説明文と図など

この由来の説明が書かれた庭の掲示板によると、正式名称は「旧周吉外三郡役所庁舎」で、1970(昭和45)年10月27日に島根県指定有形文化財に指定されている。「旧周吉外三郡」は、隠岐の周吉(すき)、隠地(おち)、知夫(ちぶ)、海士(あま)の4地域のことである。庁舎はこの隠岐4郡連合会によって西郷町に建てられ、その後島根県に委譲され「隠岐島庁庁舎」として使われたのだ。そして新庁舎建設時には、一度は廃棄される予定だったという。今日こうしてあるのは五箇村のお陰というわけである。

建物の横幅は22.91メートル(12間)、奥行きは9.55メートル(5間)。平面、立面とも左右対称。写真に見られるとおり、壁面の蛇腹や窓が上げ下げ式縦長であることなど典型的な明治初期の役所式建築だが、壁面の蛇腹が漆喰ではなく木造である点、また屋根が寄棟ではなく入母屋である点は異例だという。

「私が小学校時代に住んでいた札幌の家がね、父の勤めていた銀行の社宅だったんだけれど、2階建ての古い大きな造りで、部屋がずいぶんたくさんあって、4家族で使っていたの。その建物が、もちろん役所の作ったものじゃないから、こんなに立派じゃなくて少し大き目の個人住宅なんだけれど、窓とか壁が同じ明治式洋風で、和室より板張りの部屋が多くてちょっと似ているなあと感じた。建物の外観は、これを石造りにすると、大通り公園の西端にあった札幌高等裁判所とそっくり。要するに、昭和30年ころまでは全国各地に似たような建物があったんだね」
「そういえば青森にも似た建物があったわね。それより、私この説明書きを読んでいて、隠岐の人たちは、何か公的なものを建てるときは、決まりどおりじゃなくて、ちょっと工夫するところが素敵だなって思った。水若酢神社の隠岐造りがその代表でしょうけど、お役所の建物でも、壁や屋根に独自性を出しているのね」
「うん、そういう点はきっと、隠岐の人の心意気かもしれないね」

隠岐郷土館には、隠岐の生活用具が約200点ほど、オキシャクナゲをはじめとする隠岐の花の写真や黒曜石などが展示されている(黒曜石は本来は「黒耀石」と表記するが、「耀」が常用漢字ではないため、現在では各種事典でも「黒曜石」としているのでこれに従う)。

黒曜石は割るとその破断面がガラスのように鋭利になるので、古代から石器として利用されてきた。黒曜石は限られた地域でしか産出されない貴重なものだが、山陰山陽地域では隠岐が唯一の産出地である。しかし、この隠岐島産の黒曜石製の石器が、海を隔てた山陰の海岸部の縄文遺跡から数多く出土し、さらに山陽側の遺跡からも出土している。これは縄文時代に隠岐と本土との間で、すでに活発な交易が行なわれていたことを示しているのにほかならない。この日本海の荒海を、縄文時代にそう簡単に往来することができたのだろうか、と少々疑問に感じる。しかし、その疑問はほどなく解決する。

同じ小屋に「からむし2世号」の航海日誌や、舟の製作記録も掲示されている
この夜泊まった都万の羽衣荘に展示されている黒曜石

隠岐郷土館の正面左横に別棟の案内所のような小さい建物があり、そこに黒曜石と本土との交易に関する興味深い説明が掲示されていた。じつは、数千年前に小さな舟で日本海を渡る航路があったのかどうかを実験したグループがあったのだ。要約すると、どうやって黒曜石を本土に運んだのかについては、いろいろな説があったのだが、1981(昭和56)年7月、松江市の小学校教員11名で組織した「縄文時代の一日を再現する会(からむし会)」が、丸木舟による、島後−島前−島根半島という海上の道があった、という仮説をたてこれを実験し成功した、というのである。

う〜ん、これはまさに日本版コンチキ号じゃないですか。あのノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールが、ポリネシア人は東南アジアからではなく、アメリカ大陸から渡ったということを証明した快挙は誰でも知っている。隠岐の教員グループの丸木舟は「からむし2世号」。材木は樹齢推定300年、直径0.9メートル、長さ9メートル、重さ4トンのカナダ産の樅ノ木。これを11名の会員が2ヵ月かけてくり抜いたという。千葉県の畑町遺跡から出土した湖川型の丸木舟を参考にして、反りや彫りを深くして海洋型に改良した。「からむし2世号」のデータはこう記されている。長さ:8.2m/最大幅:0.64m/深さ:0.44m/重さ:1t/乗船人員:5人(こぎ手4人、舵取り1人)。

この感動的冒険物語には、この掲示場に掲載されている航海日誌の抜粋をそのまま、ここに記して敬意を表しておきたい。

<昭和56年7月23日(晴)

木路が崎(きじがさき)を過ぎた頃より風強く、波高くなる。しかし舟足は順調。竹島沖に至る。風波いよいよ強く、壁のような波が次々とからむし2世号を襲う。浸水はなはだしい。ともの舟べりを越えて大波がかぶさってくる。浸水量はすでに10センチをこえている。速力も低下。引き返すこともかなわず、とに角へさきを波に向けて大波加島(おおはかじま)を目指して全力でこぐ。伴走船の中新丸も木の葉のようにゆれ、波間に見えかくれしている。

しかし不思議なことに、この丸木舟の安定は極めて良く転覆のおそれは全くない。どんな波にも逆らわず、すーっと乗りあげてしまう。こんな荒海の中で、まがりなりにも航海を続けている丸木舟の姿は驚くべきことであった。
「島後、宮尾遺跡22日8時15分発→島後、蛸木22日12時40分着、23日5時03分発→島前、知夫里島、郡23日13時32分着、24日4時40分発→島根半島、七類港24日17時23分着」>


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