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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

隠岐の島[島後・西ノ島・中ノ島・知夫里島](9)  text&photo Fumihiro Funaki 2008年5月22日更新

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緑に包まれ青い海に囲まれた歴史と神話の島、島後(1)

火災に遭った隠岐国分寺から北端の白島展望台へ

2007年2月25日(日曜日)午後4時ごろに発生した火災で完全に焼失した、隠岐国分寺本堂
幸い焼け残った鐘楼

隠岐国分寺については、本来はこの回で紹介する予定だったのだが、突然の火災事故で、旅程とは関係なく、昨2007年3月7日に「特報:隠岐国分寺本堂焼失番外編」として、掲載した。ぜひそちらをもう一度ご覧ください。

この火災記事掲載時点からしばらくの間、火災の詳細が東京には伝わらず、消失したのは本堂だけだったのかなど、いくつか不安に思っていたことがあった。それが偶然、今年4月に奄美諸島の南の島々に行ったとき、火災後間もない国分寺を訪ねたという旅人に出会った。彼は国分寺にはあまり関心がなかったので詳しいことは分からないが、鐘楼は完全な形のものを見たという。偶然、鐘楼はどうなったのかという気がかりの一つが判明した。

また、本堂に保管されていた蓮華会舞(れんげえまい)の貴重な面がすべて消失したことは、すでに掲載した。その後、蓮華会舞保存会会長を務めていた村上秀男さんが、なんと面10点をご自分の手作りで復元された。そして、中断されていた毎年4月21日に行なわれる奉納公演が、今年の4月21日にめでたく再開されたのである。しかし残念なことに、公演目前の4月14日、村上さんは多臓器不全のため70歳で亡くなった。「蓮華会舞を子々孫々まで継承したい」という村上さんの遺志を継ぎ、保存会は「麦焼き」「竜王」など7演目を奉納したそうだ。ご冥福をお祈りします。


さて、隠岐国分寺は消失した本堂と、無事だった鐘楼の写真2点を掲載するだけにして、今回は先へ進むことにする。一気に島の最北端、隠岐でもっとも美しい海岸のひとつ「白島海岸」に向かった。隠岐島の公式ホームの該当ページによると、島の真北に突き出た白島崎と、白島、沖ノ島などの小島を合わせて「白島海岸」と呼ぶのだそうだ。「青い海と空に浮かぶ岩肌の白、松の緑が織り成す鮮やかな色彩は、深い印象を残すでしょう。 また、白島の南東にあるよろい岩は、柱状節理のアルカリ祖面岩に玄武岩がのった奇岩で、高さ60mに及ぶ鎧武者の姿を海上に現出させています」とある。この説明を読むと西ノ島の国賀海岸を思い出す。ここで、隠岐島連載第2回の「赤尾展望台と国賀海岸」で紹介した、国賀海岸の写真をもういちどご覧いただきたい。国賀海岸は荒々しいばかりの男性的なイメージだが、白島海岸は対照的に、“女性的な白島海岸”ともいわれるほど柔らかなイメージに満ちている。

白島展望台に向かう山道から、白島崎の小島沖ノ島にある灯台が見えた
道の両側には松などの木々が見事な姿で立ち、紫陽花も咲いていた

ではそもそも、なぜ「白島」なのかというと、2説あって一つはこうである。この海岸から布施地区の浄土ヶ浦海岸までは、非常に多くの小島や岩礁がある。数えてみると99個あったという。百に1つ足りないからそれで「白島」。これは人間の「白寿」と同じ命名だ。もうひとつの説は単純で、海蝕作用を受けた島の肌が白っぽく見えることから「白島」だという。

展望台の1kmほど手前でバスを降り、美しい山道を歩いた。右手は海への断崖絶壁だが、松をはじめとする木々の緑が、海の緑がかった深い青を背景にしてじつに美しい。ふと気がつくと標識があり、方向を示す板が何枚かついている。「金沢まで295km」「竹島まで166km」「釜山まで406km」「ウラジオストックまで803km」などとある。そうだ、隠岐島は日本海に浮かぶ国境の島なのである。複雑な国際問題の行方が頭をよぎった。

木々の間から遥か下にみる小島たちに、小さな波が押し寄せ白く泡だっている。なるほど岩肌は白っぽい。見つめていてごく自然に源実朝の歌を思い出した。


  箱根路をわれこえくれば伊豆のうみや 沖の小島に波の寄る見ゆ


場所は太平洋と日本海でまったく違うのだが、なぜか下の句の「沖の小島に波の寄る見ゆ」が耳の底でリフレインした。展望台から見る景色は、何とも平凡だが「絶景」としかいいようがない大パノラマであった。拙い形容詞を並べても味気がない。ここでまた古歌を引かずにはいられない。隠岐に縁の深い小野篁(おののたかむら)の歌である。


  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海士の釣り舟


小野篁(802〜852年)は、遣唐使の副使に任命されたが、大使との船のトラブルがあり乗船を拒否した。それが嵯峨天皇の怒りに触れ、隠岐島に流罪となった。後鳥羽院の400年ほど先輩流人というわけだが、篁は後に許されて都に戻り、蔵人頭、参議などを歴任、従三位を賜った。そこが後鳥羽院との違いだが、これは逆にそれほど後鳥羽院は大人物であったということになるのだが。

それはさておき、篁は隠岐に流される難波の船出にこの歌を詠んだという。しかしこれにも異説があり、じつは篁は隠岐の海に多くの島や岩が浮かぶ美しさに心奪われて、都をしのびつつこの歌を詠んだというのである。瀬戸内海の多くの島々を見てなのか、隠岐の島々を見てなのか。当然、隠岐の島々を見てと思いたい。篁は配流中に白島を訪ね、その時に詠んだのだという説もあるのだから…。

白島は今回のように陸を歩き展望台から海を見下ろすのもいいが、船で海に出て見るのも素晴らしい。黒島、松島、沖ノ島、白島、小白島、長島、帆掛島、雀島などの小島が波に洗われるのを間近に見るのは格別である。

白島展望台からの絶景


隠岐の島[島後・西ノ島・知夫里島]マップ
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