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| 行在所から隠岐神社に向かうとすぐ目に入る歌碑。百人一首でお馴染みの後鳥羽院の「人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふ故にもの思ふ身は」が刻まれている |
今では空虚な空き地となっている行在所跡地から、隠岐神社へと歩きながら、なぜか私にはこの小高い山が、とてつもなく心落ち着く場所に感じられた。老後はこんなところに住みたい、とさえ思ったほどである。もっとも、後鳥羽院山陵となった今となっては、ここは島最大の観光スポットなのだから、もちろん住めないし住む気にもなれない。後鳥羽院の時代はどうだったろう、案外暮らしやすいところではなかったかと想像するのである。
都会に生まれ育った人は、いつか老後は静かな田舎で暮らしたいと思う人と、都会を絶対に離れられない人の2種類に分かれる。20年ほど前に、ノンベエのある友人に冗談半分で、どう老後は一緒に田舎に行かないか、といったら「飲みに行くバーやクラブがなきゃ夜はどうすりゃいいの? 俺は生きて行けないよ」と真顔でいわれたことがある。後鳥羽院が華やかな都からこの草深い隠岐に流されて、さぞ毎日が辛かっただろうとばかり思う人は、そんな友人に近いのかもしれない。人並み外れた文武の才に恵まれ、思いのままに生きてきた独裁者的帝王が、よくもこんなところで19年も生きられたものだと、不思議に思うのであろう。
しかし、後鳥羽上皇は、真に偉大な人物だからこそ、この隠岐、海士の行在所を拠点として、充実した時間を送ることができたのではないか、と私は思う。たとえば次のような歌がある。
肩敷の苔の衣の薄ければ 朝けの風も袖にたまらず
世の常の草葉の露にしほれつつ 物思ふ秋と誰かいひけむ
泣きまさるわが泪にや色変わる 物思ふ宿の庭のむら萩
思ひやれいとゞ涙もふるさとの 荒れたる庭の秋の白露

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| 静かなたたずまいの隠岐神社。行在所から後鳥羽院を祀る隠岐神社まではものの2、3分歩くだけだ |
いずれも、隠岐に渡られてからの作で、遠島百首に収録されている秋を詠んだ歌だ。後鳥羽院が朝に夕べに涙にくれていたと思う人は、きっとこれらの歌を文字どおり、そうそう、高校生の古文の授業で教わるように、
「粗末な薄い僧衣で一人で寂しく寝ていると、夜明けの風が袖に留まることなく吹き抜けていくことよ、ああなんと侘しいことか」
「世の中にはよくあることだけれど、草の葉の露に生気を失って物思いに沈む秋であるなあ、と誰がいったのだろうか、わたしはこの隠岐で涙に濡れてしまっているのに」
「あまりに激しく泣く私の涙が血のようなので、物思いに沈んでいる家の萩の葉まで色が
かわってしまうのだろうか」
「住んでいた都を思うと涙がさめざめと流れ落ちてくるが、荒れ果てた庭の萩の露も私の涙なのだ、と思っておくれ」
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| 隠岐神社境内にある俳人、加藤楸邨(しゅうそん1905-1993)の句碑。「後鳥羽院御火葬塚33句」と前書きがあるもののひとつ「隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな」が刻まれている。 |
などと解釈してしまうのだろう。文字どおりに読めば泣きっぱなし状態で、着物の袖も庭の草木の葉も露が落ちたように涙で濡れてしまっている。高校生の教科書や参考書だけではない。多くの専門的な注釈書だって、それほどまでに単純な解釈をしないまでも、かなりそのレベルに近い。しかし、考えてもみていただきたい。そんなに毎日泣いてばかりいるほど、後鳥羽上皇はヤワな男なのであるかどうかを。
歌にある、泣く、涙をこぼす、というのは「修辞」じゃありませんか? たとえば、赤い涙が萩の葉の色を変えるほど辛い秋の日々、というオーバーな表現は歌の常套法で、それほど悲しいという意味であって、ほんとに泣くのではない。あるいはその裏に、普通の人なら悲しくて泣いて暮らすほどの日々だが、私は違うよ、新島守だよ、といっているともとれるのではないか、そう思うのである。
このバカバカしいくら当たり前と思われる歌の読み方について、これを補強するものとして丸谷才一さんの興味深い文章を引いておかなくてはならない。丸谷さんがあげる歌は、
見渡せば花の横雲たちにけり をぐらの峯の春のあけぼの
これは、1ページ目に引用した「夫木和歌抄」の巻第4花にあるもので、樋口芳麻呂(国文学、愛知教育大教授)さんの信頼すべき考証によって後鳥羽院最晩年1237(嘉禎3)年の作であることがわかっている。院は1239年に崩御されるから、死のわずか2年前の作で、もちろん隠岐の行在所で詠まれた。
この歌ですぐに気づくのは、新古今集を少しでも読んだ人には、お馴染みの言葉がいくつもある、というか、それらのありふれた言葉を組み替えただけの平凡な歌ではないかと、一見思われる。しかし丸谷さんはこういう、
「小倉山は山城国の紅葉の名所だけれど、上皇はそれを(定家の歌に触発されながら)花の名所として知られる小倉の峯に転じ、小暗い闇と咲き誇る桜を対置するといふ工夫を行った。後鳥羽院の狙ひは純粋な色彩美にあった。…かうして明暗の対照と調和はまことに洗練された意匠を形づくるのである。 私が絵画美と言ひ、濃艶と評したのはこのやうな一種官能的な風情のことにほかならない。」
そして、眼目は以下である。
「最晩年の後鳥羽院にこれほど豪奢な作があることは、ある種の泪もろい人々には都合の悪いことかもしれない。しかし私としては、もし作者の境遇を考慮に入れて鑑賞するのならば、いつそ、死を2年の後に控へた後鳥羽院の、いよいよ明るくて暗い内面がこの歌に表現されていることを喜びたいと思ふ。」(「歌人としての後鳥羽院」日本詩人選『後鳥羽院』、『後鳥羽院第二版』所収)
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| 後鳥羽院の隠岐での作「遠島百首」を収録した『新 日本古典文学大系第46巻 鎌倉篇』(岩波書店) |
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丸谷才一氏も嘆いているが、後鳥羽院の全歌を納めた出版物はまだない。これは中でも貴重な『後鳥羽院御集』(和歌大系24、明治書院) |
丸谷氏のこの文章に出会ったとき、私は意見の一致する先達をもつ喜びに、オーバーにいえば初めて震えた。同時に、後鳥羽院を理解することを通じなければ、王朝文化から武家社会へと変化していく日本の中世という大変革期の、文芸と政治を知ることは出来ないのではないかと思った。そしてその後鳥羽院が、晩年の思索を凝らした歴史的“聖地”として、隠岐の中ノ島、海士町はあるのだ、と確信したのである。
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