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| 行在所(あんざいしょ)の周りは、いつも美しい緑に囲まていた |
前回、歴史学者の目崎徳衛さんが、後鳥羽院は“自ら起した大乱によって、生前も死後も手厳しい非難にさらされ続けた人”だと書かれたことを紹介し、私は、それを後鳥羽院自身が誰よりも深く自覚していたはずだと述べた。しかし、この“自覚”は非常に複雑だ。
あはれなり世をうみわたる浦人の ほのかにともすおきのかがりび
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| 行在所からは海も近い。後鳥羽院が見たであろう小島が浮かぶ穏やかで美しい海士の入り江 |
これは後鳥羽上皇がまだ隠岐に流される前に詠まれた歌で、「夫木(ふぼく)和歌抄」巻第19に収録されている。この歌の「あはれ」の「あは」は「阿波」も意味するように、ひとつの言葉は別な意味のいくつかの言葉を含む。下の句の「おき」は「沖」であるとともに「隠岐」を意味するのである。このように言葉が重層的な意味をもっているので、一首に込められ上皇の思いのすべてを知ることは難しいが、物寂しい漁師と海原、そして遠くに見える篝火という表面的に見てとれる情景の背後に、うっすらと「隠岐」への憧憬のようなものが透けて見えている。
承久の乱は後鳥羽院の情勢判断が甘く、敗れて当然の無謀な戦いであったとする人が多いが、そもそも後鳥羽上皇ほどの叡智にあふれ、胆力に恵まれた帝王が、時の鎌倉幕府と戦って簡単に勝利すると考えていたとは思えない。あえて兵を起こすに際しては、もちろん幾分かの勝利への期待があったことは当然だが、同時に上皇の心の奥底には、空前絶後の栄華の絶頂から、遠く離れた孤島に流され前半生とは一転痛恨の日々に沈むご自分の姿を夢想するという、「滅びの美学」がないとはいえないのである。少し調べていくと、後鳥羽上皇にはそう思わざるを得ない“複雑な”心理が働いていたように思われるのだ。もういちど「あはれなり…」の歌を音読すると、隠岐への複雑な思いが秘められているのがはっきりと感じとれる。
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| 隠岐の「牛突き」は後鳥羽院をお慰めするために始められたと伝えられる |
これ以上深入りは避けるが、丸谷才一氏の「宮廷文学と政治と文学」(日本詩人選『後鳥羽院』、『後鳥羽院第二版』所収)を踏まえていえば、まだ歴史的に承久の乱とその前後の真相の解明は十分に進んでいない。明治以降の文学界では、正岡子規の強い影響から、後鳥羽上皇とその周辺の文学が過小評価されているために、まだまだ不明な点が多いのである。しかし近年は、社会的リアリズムや近代文芸観の見直しもあって、後鳥羽院とその周辺の詩人、作品の再評価が高まっている。先にあげた歌から、後鳥羽院の真意を汲み取る作業も、これからますます進むに違いない。
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| 後鳥羽院は海士で鍛刀もされた。「海士町歴史民俗資料館」に展示されている「鍛刀聖姿」。院の姿を想像して描かれたもの(ガラス越しなので証明灯が映りこんでいます) |
そのような機運もあって、海士の後鳥羽上皇山陵に立つと、隠岐と後鳥羽院の関係も大いに見直される必要があるとしみじみ思うのである。この小高い山から周囲を見渡すと、涙に暮れ都に帰ることのみを願って鬱々と過ごす後鳥羽院は、まことに似合わないと思えてくる。たとえば、島の人々は後鳥羽院の姿に接して、高貴この上ないお方はきっと不運の身の上を嘆き悲しんでおられるだろうと察した。そして、そのお心を少しでもお慰めしたいと思って、あるとき島の黒牛を戦わせてお見せしたという。それが隠岐に伝わる「牛突き」の起こりである。後鳥羽院はこれが大いに気に入られたという。だからこそ、院の没後750年を超える今日でもなお「牛突き」は隠岐で盛んなのである。
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| 後鳥羽上皇隠岐山陵前にある「番鍛治の顕彰碑」 |
さらに後鳥羽院が刀の鍛造に特別な思い入れをお持ちであったことを知れば、隠岐でも鍛治が集められ、院の指導のもとに刀を作ったのである。山陵入口にはその番鍛治の顕彰碑が建てられている。また「海士町歴史民俗資料館」には、海士町出身で昭和初期に活躍した画家、広瀬貫川(ひろせかんせん)による「鍛刀聖姿」が展示されている。これは上皇が実際に槌を振っておられる姿を想像して描かれたものだ。
島の豪族村上氏をはじめ島の人々は、そのように後鳥羽院のために出来るさまざまなことを考えたのである。そして、上皇は積極的にその好意を受け入れた。誤解が避けられるなら、島での生活を大いに楽しまれた、といいたい。そうでなければ、19年もの長い年月は過ぎて行かないのではないだろうか。

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