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| 後鳥羽院はここにあった源福寺で、わずかな随行者と19年を送った |
火葬塚から少し上って右に曲がると、白い柵に囲まれた空き地が目に入る。なんとも裏寂れた感じの空間だが、その後ろには枝ぶりの見事な木々が茂っていて美しい。海士町の観光ガイド「海士のあれこれ」によると、ここにはかつて、天平年間に聖武天皇の勅によって建立された古刹、源福寺があった。正式には苅田山苅田寺展法輪院と称し、六坊と鐘楼、仁王門があり、行基作と伝えられる大日如来が祀られていたという。
後鳥羽院が隠岐に上陸されたのは、1221(承久3)年8月5日、中ノ島の南部にある、崎(さき)の港であった。海路は大荒れであったという。その大時化に翻弄される船上から海に向かって大音声で詠まれたのが、この連載の第1回でも紹介している
我こそは新じま守よ沖の海の あらき浪かぜ心してふけ

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| 木々の緑が美しい裏の斜面。当時はもっと多くの木があったろう |
であったといわれている。その真偽はともかく、後鳥羽院の一行は、といっても前ページで紹介した元北面の武士藤原能茂(法名、西蓮)、出羽の前司藤原清房(法名、清寂)、医師和気長成(法名、拝信)、そして坊門の局、伊賀の局(亀菊)などわずか数人が随行しただけであったが、護衛の武士とともに夕刻無事に崎に入港した。その夜は崎の三穂神社に一泊され、これから19年の長きにわたってお住まいとなる行在所、源福寺に入られたのは、その翌日のことであった。「海士のあれこれ」によると、寺伝には院の勅許により、そのときから「源福寺隠岐院」となったとある。史書『増鏡』の「隠岐の後鳥羽院(二)」にはこう書かれている。
……このおはします所は、人離れ、里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山陰にかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦葺ける廊など、けしきばかりことそぎたり。まことに「柴の庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿思し出づるも夢のやうになん。はるばると見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心地する、今更めきたり。……
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| 行在所からは、海士の入り江のこんな景色が見えたかもしれない |
この後に続けて、潮風のいとこちたく吹きくるを聞しめして、とあり、例の「我こそは新じま守よ」の歌が記されている。『増鏡』では行在所に着いてからの歌とされているのだ(『増鏡』の表記は講談社学術文庫版による)。
それにしても、源福寺が院の離宮水無瀬殿に比べるまでもなく粗末であったことは当然だが、村上氏はじめ土地の人々は後鳥羽院を温かく迎え、深い尊敬の心をもってお守りしたのである。狭く粗末ではあったが、人々の協力によって修理もされたであろう。そして、この地から望見する「鏡ケ浦」とも呼ばれる海士の美しい入り江は、院の心を大いに慰め、力づけたに違いない。
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行在所の近くにある院の歌が刻まれた歌碑。歌は、
故郷をしのぶの軒に風過ぎて 苔のたもとに匂ふ橘 |
この隠岐連載中断の間中ずっと、気になっていたのは、『増鏡』はじめ多くの史書で書かれていることのほとんどが、そして国文学者が書いていることもまた、都に華麗に君臨した後鳥羽上皇が、隠岐では身に起こった悲劇を鬱々として嘆き悲しみ、憤怒にかられて、19年の年月を送った、としていることだった。
行在所の立て札にも、「隠岐へご遷幸の後鳥羽上皇は、この苅田郷の地を行在所とされました。御幽居中は都へ御還幸の望みも絶え、御憂鬱のうちに歳月を送られること十有九年に及びました」とある。そして、
蛙鳴く勝田の池の夕たたみ 聞かましものは松風の音
という院の歌を引いて、行在所では蛙の声と松風の音がうるさく聞こえるばかりで、お気の毒なことであった、という。しかし、それではずいぶんと情けない話なので、蛙の声と松風の音があまりにうるさいので、この歌を詠んだら、不思議なことに蛙も鳴かなくなったし、松風も静かになった、という申し訳のような伝説がつけられる。
『増鏡』には、
……今一度、都へ帰らんの御心ざし深かりしかど、遂に空しくてやみ給ひにし事、いとかたじけなく、あはれになさけなき世も、いまさら心うし。……
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行在所近くの勝田の池。当時は蛙がしきりに鳴いたという。歌碑が近くにある。歌は院の詠んだ
蛙鳴く勝田の池の夕たたみ 聞かしものは松風の音 |
と、ある。これが、どうも腑に落ちない。1ページで紹介した目崎徳衛氏は同じ「遠流の島」で、土地の人からは「(海士の行在所付近は)隠岐でも、もっとも住みよい所だ」という意外な言葉を聞いたと書かれている。実際にここを訪れてみればすぐにわかることだが、本当に海士は美しく住みよいところなのである。院はきっと、すぐにこの土地に馴染まれたに違いない。土地の人々の中に進んで入られ大いに交流されたはずである。
しかし、多くの後鳥羽院関連の本を読んでいくと、極端にいえば、後鳥羽院は自分がまるで偶然身に降りかかった災難に遭遇した悲劇の主人公であり、これをもたらした者たちを激しく恨み続け、一方では都の栄華を毎日思いだしては涙にくれていた、そんな人物であるかのように思われてくる。だから、御火葬塚や行在所に立つと、院がお気の毒で胸がつぶれる思いがして、泣いてしまう国文学者がいたりする。
しかしこれは、違う、だろう。後鳥羽院はそんな小さな器の人物ではない。目崎氏がいうように後鳥羽院は「自ら起した大乱によって、生前も死後も手厳しい非難にさらされ続けた」人であり、それを誰よりも深く自覚していたはずなのである。そう思って、後鳥羽院と隠岐のことを考えると、実に壮大な日本の歴史の1ページが、新たな展望のもとに見えてくるのである。
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