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「海士町歴史民俗資料館」の紹介をし、その先へ進もうとした矢先に、隠岐国分寺が火災に見舞われ、本堂を消失するという大事件があった。これはぜひご報告しなければと思い、隠岐連載番外編として「特報:隠岐国分寺本堂焼失」を組んだ。その後、中ノ島に戻って、後鳥羽院の山陵に進む予定だったが、それには少し調べたいことがあって、しばらく隠岐の連載が止まってしまった。お詫びします。では、つつしんで再開。
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| 「海士町歴史民俗資料館」の前に立てられている「隠岐神社周辺鳥瞰図」 |
さて、「海士町歴史民俗資料館(以下、資料館)」を出ると、目の前が小高い山になっていて、その一帯が「後鳥羽上皇隠岐山稜」となっている。写真「隠岐神社周辺鳥瞰図」は、資料館前に掲示されている山陵の概略図である。そして、「源福寺・隠岐山陵図」の写真は、資料館のパンフレットに掲載されているもの。1863(文久3)年当時の様子が描かれているが、後に模写されたものが現在資料館に展示されている。見取図下の部分の左右に走る道が、現在は資料館前の317号線で、後鳥羽院が配流されたころには、この道のかなり近くまで海岸が迫っていたのではないかといわれている。
残念ながら掲載写真は不鮮明で、個々の説明文字は判読できないが、中央やや左の道路から3枚目の説明文字が「後鳥羽院神社」である。ここは、現在「後鳥羽院火葬塚」となっている。そして中央奥に見えるのが「源福寺本堂」だが、1868(明治元)年の神仏分離令を契機に起こった廃仏毀釈によって、源福寺はそのすべてが取り壊されてしまった。現在はいくつかの礎石がわずかに残る、白い柵に囲まれた「後鳥羽院行在所(あんざいしょ)跡地」となっている。ここから右手やや下った、図では空き地に見えるところに、現在は後鳥羽院を祀る「隠岐神社」がある。
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| 源福寺・隠岐山陵図。1863(文久3)年当時の様子が描かれている |
拝観のルートとしては、隠岐神社の参道から神社、行在所跡地、火葬塚と進むのが本来なのかもしれないが、今回は左手の道を上って、まず火葬塚、そして時計回りに行在所跡地、隠岐神社と進んだ。訪問時は台風の接近で今にも雨が降り出しそうに、厚い雲が足早に空を渡るあいにくの天気だったが、この緩やかな傾斜の山陵は柔らかな木々の緑に包まれ、濡れた葉が時折雲の切れ間から差し込む日差しを浴びて輝き、不思議に心安らぐ所であった。承久の乱による後鳥羽上皇の隠岐配流から、すでにもう780有余年の年月が流れてしまった。これ以上はないドラマティックな生涯を終えた、後鳥羽院の御霊は、たけり狂うことなく静かに長い休息についていると感じられた。
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| 火葬塚。後鳥羽院はここで火葬に付された |
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| 火葬塚から行在所跡への道。木々の緑が美しく心安らぐ聖地だ |
19年もの長くをこの地で過ごし、60年の生涯をこの地で終えた後鳥羽院は、今目にしているこの場所で火葬に付されたのだ、と思うと、背筋を引き伸ばされるような、厳粛な戦慄が全身を走り抜ける。院のご遺骨は、院のおそばに仕えた、元北面の武士、出家して西蓮となった藤原能茂によって都へ持ち帰られ、京都大原の法華堂に納めらた。
その後ずっと長く、ここは「後鳥羽院神社」として源福寺の住職や、院の身辺のお世話をした土地の豪族村上氏によって守られてきた。しかし1873(明治6)年、明治天皇の思召により、佐渡で崩御された順徳上皇、阿波で崩御された土御門上皇とともに、水無瀬神宮へ合祀されることとなり、山陵の本殿が取り払われた。その後1875(明治8)年、当時の宮内省が山陵を修復し、その時からこの一帯は宮内省所管となった。
『史伝後鳥羽院』で知られる歴史学者の目崎徳衛氏は、日本古典文学大系46『中世和歌集 鎌倉篇』(岩波書店)の月報「遠流の島」で、こう書かれている。
……維新政府が仰々しい「神霊奉還」を行った後、顧みなかった火葬塚は、八雲の頃(小泉八雲が隠岐に滞在した1892、明治25年ころ)にはもっぱら隠岐びとによって守られていたのである。……
実際には今日まで村上氏が中心となって隠岐の人々によって管理されてきたのだ。

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