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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

隠岐の島[島後・西ノ島・中ノ島・知夫里島](4)  text&photo Fumihiro Funaki 2007 3月7日更新

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特報:隠岐国分寺本堂焼失

後醍醐天皇の行在所であった隠岐国分寺

後醍醐天皇行在所跡
後醍醐天皇の行在所跡は新本堂のすぐ裏手にある。画面右手奥に明治以前の本堂があってそこが天皇の行在所であった

隠岐国分寺には、歴史的に重要なもう一つの側面がある。それは、建武の中興で知られる後醍醐天皇の行在所として、である。山門の幕には「後醍醐天皇隠岐御遷幸 六七〇年記念 平成十四年四月二日調之」と書かれている。つまり、平成14年、2002年は後醍醐天皇が隠岐に流され、この国分寺本堂を行在所とされてから670年になるというわけだ。


後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕の再度の計画が側近、吉田定房の密告によって漏れ、圧倒的な兵力を誇る幕府軍に破れ、隠岐に流されることになった。これを元弘の変という。時に1331年(元弘元年)9月。天皇が隠岐に向けて京を出発されたのは、翌1332(元弘2)年3月7日であった。後鳥羽院が隠岐に流されてから、実に111年にして、再び天皇が隠岐に流されたのである。この間の事情を「今鏡」はこう伝えている。まず、第16「久米のさら山」の隠岐島に渡るくだりである(以下引用は井上宗雄全訳注「増鏡」講談社学術文庫による)。


旧境内跡
石杭で囲われた行在所の前には「史蹟隠岐国分寺境内」の石塔がある
「出雲の国やすきの津といふ所より、御舟に奉る。大船二十四艘、小舟どもはしに数しらずつけたり。はるかにおし出す程、今一かすみ、心細うあはれにて、まことに二千里の外の心地するも、今更めきたり。

かの島におはしまし着きぬ。昔の御あとはそれとばかりのしるしだになく、人の住みかもまれに、おのづから海士(あま)の塩やく里ばかりはるかにて、いとあはれなるを御覧ずるにも、御身の上はさしおかれて、まづかの古(いにしへ)のこと思し出づ。 …中略…

海づらより少し入りたる国分寺といふ寺を、よろしきさまにとり払いて、おはしまし所に定む。今はさはかくてあるべき御身ぞかし、と思ししづまる程、なほ夢の心地していはんかたなし。…後略…」

天皇縁の品と蓮華会舞面
焼け落ちた新本堂には天皇ゆかりの遺品が展示されていた。これらも焼失したのだろうか
本堂横の御座船模型
新本堂の右側面に取り付けられた縮尺5分の1の「御座船」模型。天皇はこの船で島に渡られたと伝えられる。ひのき造りで、全長4.3メートル、幅1.2メートル。この模型は門脇林市という人が作った

「昔の御あと」は、百余年前の後鳥羽院が住まわれた跡という意味で、もう百年も経ってすっかり跡形もない、といっているのだ。そして、この部分ではっきりと、後醍醐天皇の隠岐での行在所は国分寺と書かれている。天皇が国分寺にご到着されたのは、ご出立後約1ヵ月ほど経った4月2日のことであった。

ところで、後醍醐天皇が後鳥羽院と大きく違うのは、院が生涯島を出ることなく、行在所で崩御されたのに対して、天皇は約1年後に島脱出に成功し、建武の中興を成就されたことである。

続いて今鏡第17「月草の花」の冒頭からは、天皇の島での暮らしぶりの一端が窺われる。

「かの島には、春来てもなほ浦風さえて浪荒く、渚の氷もとけがたき世の気色に、いとど思しむすぼるる事つきせず。かすかに心細き御住ひに、年さへ隔たりぬるよ、とあさましく思さる。さぶらふ人々も、しばしこそあれ、いみじく屈(くん)じにたり。

今年は正慶二年といふ。閏二月あり、後の如月の初めつかたより、とりわきて密教の秘法を試みさせ給へば、夜も大殿籠らぬ日数へて、さすがいたう困じ給ひにけり。…後略…」


本堂内
新本堂の内部。写真中央の板の部分に立って手を打つと、不思議な音が天井から聞こえる。「鳴り天井」として広く知られていた

しかし、天皇は寂しくも、心細くもなかった、と私は思う。この間、しきりに島脱出の策を練り、頼りにする部下との連絡も怠りなく、後の中興の準備を懇ろにされていたはずだ。そうでなければ、王は王たりえない。この号外特報の後、本稿は再び中ノ島の後鳥羽院のもとに戻るが、院もまた島にあっては、涙に暮れているばかりではなかった。

さて、後醍醐天皇はいよいよ島を脱出される。そのくだりを今鏡は同じく第17でこう伝える。

裏手から見た本堂
天皇行在所跡の側から見た新本堂


「都にも、なほ世の中静まりかねたるさまに聞ゆれば、万づに思ぼし慰めて関守のうち寝るひまをのみうかがひ給ふに、然るべき時の至れるにや、御垣守にさぶらふ兵どもも、御気色をほの心えて、なびき仕うまつらんと思ふ心つきにければ、さるべき限り語らひ合はせて、同じ月の二十四日の曙に、いみじくたばかりてかくろへ率て奉る。いとあやしげなるあまの釣舟のさまに見せて、夜深き空の暗きまぎれに押し出す。折りしも霧いみじうふりて、行く先も見えず、いかさまならんとあやふけれど、御心をしづめて念じ給ふに、思ふ方の風さへ吹き進みて、その日の申の時に出雲の国に着かせ給ひぬ。ここにてぞ人々心地しづめける。」


後醍醐天皇行在所跡石碑
境内に独り空しく立っているであろう後醍醐天皇行在所跡の石塔

こうして後醍醐天皇は隠岐島脱出に成功されたのである。なかなか手に汗握る物語である。この時代(中世)の天皇は、いかにも王らしさにあふれておられる。

このように、わが国の中世史における重要な政変の舞台となった隠岐国分寺は、なんとしても守らなければならない史跡であったが、新本堂が焼け落ちてしまった。山門をくぐると、新本堂の焼け跡から、後醍醐天皇行在所であった旧本堂跡地が、まっすぐに見通せてしまう。「後醍醐天皇行在所跡」と刻まれた大きな石塔ばかりがむなしくそびえる。これでは中ノ島の後鳥羽院行在所跡と同じく、寂しいばかりの史跡だ。しかし、中ノ島には行在所跡のすぐ近くに隠岐神社が建立された。さて、国分寺はどうなるのだろうか。


隠岐国分寺火災続報 NEW !
島根県、隠岐の島町、
支援に前向き、蓮華会舞はレプリカの面で秋に復活の可能性 (2007年3月21日)

3月7日掲載「隠岐の島(4)」でお伝えした、隠岐国分寺の火災から3週間ほどになるが、火災の原因など詳細についてはまだ判明していないことが多い。

焼け跡の報道写真をみると、本堂は完全な全焼状態で、仏像や蓮華会舞の面など収納物は残念ながら跡形も無く消えてしまっただろう。しかし、3月8日の「asahi.com MY TOWN 島根」が伝えるところによると、本尊の「釈迦如来像」は焼失したが、「四天王像」の1体は形をとどめたので、これを仮本堂の庫裏に納めて当面の本尊とすることにしたそうだ。


また、3月4日には、重栖真快住職や檀家総代、地区の役員らが集まり、今後の再建を目指して委員会を結成し、寄付集めをしていく方針を確認したという。これに基づき翌5日には、重栖隆快副住職や野坂一定総代長らが松田和久町長に支援を陳情した。松田町長は、政教分離の原則から行政支援には検討が必要だが、隠岐の観光の中心を担う国分寺は、かけがえのないもので、檀家だけでなく、島民あげて再建する態勢が望ましい、と語ったそうだ。

さらに、島根県議会は3月2日、春に奉納される国の重要無形民俗文化財「蓮華会舞」の再開に向けて県の支援を求める決議を採択した。一方すでに4月21日から予定されていた今年の公演の中止を決めている「隠岐国分寺蓮華会舞保存会」は、町が新調する衣装などの制作費用の補助に前向きなので、保存会の役員が持っていたレプリカの面を活用するなどの工夫をして、数ヵ月程度で道具一式をそろえ、今秋にも「復活」できる見通しとなったといっている。

保存会の村上会長は、「いつまでも落ち込んではいられない。会員が力を合わせて準備をし、復元を祝い、本堂再建への願いを込めた蓮華会舞にしたい」と話している。どうやら再建の動きは、蓮華会舞の復元から動き出したようだ。国、県、町、全国の多くの人々の力を結集して、一日も早く再建が実現することを祈りたい。


隠岐の島町
参考ニュースサイト「asahi.com MY TOWN 島根」

隠岐国分寺 〒685-0007 島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5
  TEL08512-2-2934 FAX08512-2-7329
  http://www.shoko-shimane.or.jp/godaigo/k03.htm
  http://www.e-oki.net/kankou/look/saigo/html/kokubunji.htm
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