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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

隠岐の島[島後・西ノ島・中ノ島・知夫里島](2)  text&photo Fumihiro Funaki 200611月1日更新

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後鳥羽院ゆかりの資料に歴史の因縁を思う

「海士町歴史民俗資料館」には、海士町内で出土した縄文、弥生、古墳時代の考古資料や、近世の流人資料、民俗・民具資料などが収蔵されているが、眼目は何といっても、後鳥羽上皇ゆかりの遺品である。その主なものは以下の通りである。

[隠岐神社宝物]
後鳥羽院御影(水無瀬神宮蔵の複製)、後鳥羽院御手印御置文(水無瀬神宮蔵の複製)、熊野懐紙(近衛家陽明文庫蔵の複製)、遠島御百首(巻軸仕立)、遠島歌合・後鳥羽院御集・後鳥羽院御口伝・遠島百首抄(板本)、「隠岐院」扁額(源福寺蔵、持明院基延筆)、刀剣(来国光、一振)、刀剣(月山貞一、外 17振)、書(後鳥羽院御製、高松宮妃殿下、金子鴎亭ほか)、絵画(「懐郷天姿」ほか6点、広瀬貫川画)ほか
[後鳥羽院御遺品]
後鳥羽院御宸筆、御銀鍋、御薬茶碗、御茶入、御愛用猫石、御愛用蛙石、菊綿
[隠岐山稜宝物(村上家蔵)]
四百回忌御奉納後水尾天皇御念珠、普門品 冷泉入道前大納言澄覚筆

では、この中のいくつかを簡単に紹介したい。


●後鳥羽院御影
承久の乱に敗れ隠岐への御配流が決定すると、後鳥羽上皇は藤原信実に肖像を描かせ、御生母七条院、藤原殖子への形見として残された。上皇崩御の後は水無瀬家に寄贈され、現在は水無瀬神宮に所蔵されている。ここに展示されているのはその複製。

●後鳥羽院と刀鍛冶
後鳥羽上皇は若い時から、和歌、武芸、作刀、蹴鞠などに文武にわたる多芸多才で知られていたが、その歌についてはこれからじっくりと触れることにして、まずは作刀である。資料館前の「後鳥羽上皇番鍛冶顕彰碑」について記したとおり(1ページ)、上皇は早くから全国の優れた刀工を御所に召し、月毎に当番として作刀させた。御自身もお作りになられたという。ここに展示されている絵画は、海士町出身で昭和初期に活躍した画家、広瀬貫川(ひろせかんせん)による「鍛刀聖姿」。上皇が実際に槌を振っておられる姿を想像して描かれたもの。下に見える刀剣は「来国光」。

●書

後鳥羽院の良く知られた歌の書が何点か展示されている。左は高松宮妃殿下の書で、行在所境内に建立された歌碑のために書かれたもの。歌は「遠島御百首」のうち22番で、


故郷(ふるさと)を しのぶの軒に

風すぎて 苔のたもとに 匂ふたちばな


歌の意味は「故郷である都を偲んでいると、苔の生えたような粗末な僧衣の袂に、軒端の忍草を吹き抜けた風が通り過ぎて、橘の香りが漂ってきて、都の懐かしさを募らせるようだ」というようなことだ。しかし「故郷をしのぶ」とあれば、これは藤原雅経の、

故郷を しのぶもぢずり 露乱れ 木の下しげき 宮城野の原

が、すぐに思い出される。そして「匂ふたちばな」とあれば、これは新古今集所収、式子内親王の、

かへりこぬ 昔を今と 思い寝の 夢の枕に にほふたちばな

が直ちに響いてくるという仕掛けが、輻輳した味わいをかもし出している(後鳥羽院の和歌については、新日本古典文学大系46「中世和歌集 鎌倉篇(岩波書店)」所収「遠島御百首」の樋口芳麻呂氏の校注を参考にした。以下2首も同じ)。

中央と右の書は、前東大寺管長、清水公照によるもの。中央の歌は「遠島御百首」18番で、


すみぞめの そでやあやなく にほふらむ 花ふきわたる 春の夕風


これは、底本によって少し表記が違っていて、新古典日本文学大系では高松宮本「類聚百首」によって、

墨染めの 袖もあやなくに にほふかな 花吹き乱る 春の夕風

となっている。歌意は「私の墨染めの袖も、花が吹き乱れる春の夕風に、美しく映えていることだ」。俗人ではない自分の袖が、春の夕風に美しく映えることを、少し面映く、あるいは理不尽だと思っている雰囲気が伝わってくる。「花吹き乱る」とあれば、清輔集の

秋の野の 花吹き乱る 夕風に 袂よりさえ 露ぞこぼるる

という歌が、思い起こされるという。

右の書は、「遠島御百首」の45番で、


おもひやれ いとど涙も ふる里の あれたるにはの はきの白露


これも、新古典日本文学大系では、

思ひやれ いとど涙も ふるさとの 荒れたる庭の 秋の白露

とある。歌の大意は「都を恋しく思うと、いよいよ涙が流れ落ちるが、今はきっと荒れているだろうその庭の秋の露は、自分の涙なのである」というようなところか。この歌には百首のうち43番、

泣きまさる 我が泪(なみだ)にや 色変わる 物思ふ宿の 庭のむら萩

や、その本歌、古今集所収読み人しらずの、

鳴き渡る 雁の涙や 落ちつらむ 物思ふ宿の 萩の上の露

などが響き合っているという。

●絵画「懐郷天姿」

上皇が過ぎ去った都の日々を行在所で懐かしんでおられるお姿を描いたもので、前出「後鳥羽院と刀鍛冶」と同じく広瀬貫川によるもの。この絵のイメージをかきたてた歌として「遠島御百首」99番の


おなじ世に またすみの江の

月やみむ けふこそよその

をきのしまもり


が、絵の解説の横に貼られている。

●扁額「隠岐院」

後鳥羽上皇がお住まいになった源福寺は、明治の廃仏の厄に遭って寺地も移転させられ、所蔵の宝物も分散されてしまい、今ではわづかにその一部が保管されているのみだ。この扁額はその貴重なものの一つで、1851(嘉永4)年に当時の隠岐代官、高橋君風主が作らせて寄進したもの。


●後鳥羽上皇の宸筆

宸筆とは天皇の筆跡のこと。「人は順境逆境にかかわらず悩みが多く、これを解くため仏門に入った」という意味の経文に、島に流されて暮らされているご心境を重ねて書かれている。


●上皇御遺品

上皇が実際に使われた品。左から、御生母七条院献上の御椀、御薬茶碗、御茶入。


●御手印御置文

これは水無瀬神宮所蔵のものの複製で、縦30.4センチ、全長108.8センチ。後鳥羽上皇の遺言状に相当するものだ。寵臣、水無瀬父子に託されたもので、
「病が日毎に重くなって、今はこれまでと覚悟を定めている。これまでに尽くしてくれたお前たちに対して、何ら報いることができないが、摂津の水無瀬庄など2ヵ所に荘園がある。これをもって私の追善供養などもよろしく頼む」
という内容が書かれている。上皇はこの置文が書かれた13日後の、1239(延応元)年2月22日に都から遠く離れたこの海士の地で崩御された。御歳60歳であられた。


後鳥羽上皇がお生まれになったのは、1180(治承4)年。それから60年、まさにこれ以上はない波乱万丈のご生涯を送られ、天皇であったお方としては、初めて都に帰ることなく流刑の地で崩御された。隠岐の島を巡りながら、上皇のご生涯を思い返し、「中世」という歴史の大転換期を振り返ってみたい、しみじみとそう思ったのである。

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