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| 海のバスといった感じの小艇で中ノ島へ向かう |
中ノ島の菱浦(ひしうら)港は、西ノ島の別府港から海上バスのような高速艇で東に10分ほどの距離にある。別府港上空の薄墨を流したような雲はかなり低く、西から東へと不吉に流れている。波はざわざわと泡立ち、細かい雨が時折顔に当たる。どうやら台風10号は消滅することなく隠岐に向かってきているようだ。これから隠岐旅行の最大イベントである、後鳥羽院詣をするところだというのに、恥知らずのしぶといヤツだ。院の下の句、
沖の海の あらき浪かぜ 心してふけ
を何度か唱えつつ、16時発の船に乗り込んだ。
船はかなり烈しく揺れた。いや揺れるというより、バスがデコボコ道を走るように、上下に絶え間なくバウンドする。大量の波しぶきを立てて、窓からの景色はまるで半潜水艇から海中を見ているような状態に陥ってしまった。船底は壊れないだろうかと心配になるほど音を立てて、海面に強く叩きつけられている。“あらき浪かぜ”に、“心してふけ”の呪文は通じなかった。畏れ多いことである。
しかし、乗客はさすが熟年日本人、誰一人悲鳴を上げる者もなく、時折窓に打ち付ける激しい浪に「あら、まあ」と微笑を送りつつ、穏やかに談笑して時を過ごしたのであった。小艇は見事に荒波を乗り越え、定刻16時10分菱浦港に無事着岸した。

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| 小雨模様の中ノ島、菱浦港と中里地区の案内図 |
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| 後鳥羽院に仕えた村上家 |
雨は霧雨から小雨になったものの、短い距離なら傘がなくても歩ける程度だ。隠岐海士(あま)交通のバスに乗って、まず後鳥羽院ゆかりの貴重な資料が展示されている中里地区の「海士町歴史民俗資料館」に向かう。
菱浦港からやや東に進み、諏訪湾を左手に見ながら南下、ほどなく左折して中里地域のメインストリートを東に進む。ガイドさんが、
「右手に見えるのが村上家でございます。後鳥羽上皇が流されて以来、鎌倉幕府の命により上皇のお目付け役となりまして、ご崩御の後は今日までずっと陵墓をお守りして参ったのです。幕府の命によるといっても、決して上皇を監視するという厳しい対応ではなく、むしろ尊崇の心をもってお仕えして参ったのでございます」
と説明をする。
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| 並んで立つ「後鳥羽上皇隠岐山稜」「後鳥羽上皇番鍛顕彰碑」(左)の石碑 |
この少し先の右手に石碑が2つ並んでいるのが目に入る。細長いほうには「後鳥羽上皇隠岐山稜」、四角いほうには「後鳥羽上皇番鍛冶顕彰碑」とある。前者はここから右奥の小高い一帯が、上皇の陵墓であることを示している。後者にある「番鍛冶」は、後鳥羽上皇が諸国の鍛冶を院の御所に召して月毎に当番として作刀させた制度、またはその鍛冶のことをいう。上皇は早くから鍛冶について深い知識をもち、自ら作刀もされたという。おそらく隠岐でも鍛冶を集め、技術の伝承向上に当たられたのであろう。碑はそのような番鍛冶を顕彰したものだ(なお、後鳥羽上皇は、天皇在位の時はもちろん「後鳥羽天皇」であり、土御門天皇に皇位を譲られた後は「後鳥羽上皇」となる。そして、隠岐に流されることが決まったときに剃髪されて「後鳥羽法皇」となった。「後鳥羽院」は崩御された後に贈られたもので、表記が4種あることになる。ここでは、主として「上皇」、和歌などに因む話題や、親しみを込めて逸話や遺跡について記す時には「院」、この2種を併用する)。

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| 後鳥羽院ゆかりの資料を展示する「海士町歴史民俗資料館」。手前の櫓には「流転の梵鐘」が吊るされている |
「海士町歴史民俗資料館」は、2つの石碑の反対側、道路を挟んで左側にあり、港からバスでわずか数分の近さだ。館の入り口手前には瓦屋根、白木組みの櫓があり、由緒ありそうな梵鐘が吊るされている。
立て札の説明によると、1497(明応6)年、後鳥羽院追善供養のため、院の行在所(※1)であった「源福寺」に梵鐘がに寄進されたのだが、1566(永禄9)年毛利の海賊に略奪された。その梵鐘は、1836(天保7)年に石見の国温泉津(ゆのつ)で発見されたが、どうしたわけかいまだに島に戻ってこない、と伝えられている。このため「流転の梵鐘」と呼ばれている。島の人々はいつの日かその鐘が戻ってくることを祈って複製を作り、2001(平成13)年4月に寄進したのだという。寄進者は「隠岐海士ライオンズクラブ」とある。

バスを降りると傘があったほうがいいかな、という程度に小雨が降っている。館内見学の後に山稜に行き、「御火葬塚」「行在所跡」「隠岐神社」にお参りするのだが、いよいよ台風が心配になってきた。
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