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壱岐の旅も終わりに近づいた。今回の第1次訪問の最終章を飾るのは、やはりこの人でなければならない。そう、折口信夫(おりぐちしのぶ)、歌人としての名は、釈 迢空(しゃくちょうくう)、その人である。岳ノ辻に立派な歌碑があり、次の歌が刻まれている。
葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり
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| 折口信夫、歌人名=釈 超空の歌碑 |
独創的な国文学者にして、柳田国男と並ぶ民俗学の泰斗。学者として歌人、詩人として多くの論文、作品を残した。折口は1921(大正10)年、1924(大正13)年の2回に渡って民間伝承採訪のため壱岐を訪れている。歌碑の作品はその壱岐滞在から生まれたもので、歌集『海やまのあひだ』の大正13年の部の冒頭、島山14首の第1首目に収録されている。
葛(くず)はマメ科のつる性多年草で、根から葛粉をとる。漢方薬の葛根湯も根から作られる。葉の裏が白くて目立つので、王朝和歌では葛は秋風に翻る葉がおもに詠まれた。花が詠まれるようになったのは、この釈迢空の作品に始まるともいわれるので、壱岐は文学史上で大いに葛の花に貢献していることになる。この山道を、とあるのは、おそらく郷ノ浦から岳ノ辻に向かう山道のことだろう。このほかに2首ほどあげておく。
この島に われを見知れる 人はあらず やすしと思ふ あゆみのさびしさ
ひとりある 心ゆるびに 島山の さやけきに向きて 息つきにけり
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| 1927年(昭和2)9月ごろ草稿とある「雪の島」が収録された『折口信夫全集第3巻』 |
折口信夫は柳田国男と並ぶ、今でいうフィールドワークの大家で、全国各地の民間伝承を数多く採録した。壱岐には2度訪れ、「壱岐民間伝承採訪記」として、60件ほどが採録されている。この記録は最初1929〜1930(昭和4〜5)年に『民俗学』に分載された。現在は全集の第15巻にまとめて収録されている。どれも興味深く貴重な記録だが、ここで紹介する余裕はないので、残念ながら別な機会に譲らざるを得ない。
もうひとつ注目されるのは、全集第3巻に収録されている「雪の島」である。これは1927(昭和2)年に書かれたもののようだが、最初に壱岐を訪れた時の紀行文兼伝承記録のような作品だ。全集の第3巻は折口の代表作『古代研究(民俗学篇2)』であることからもわかるように、壱岐の古い時代の歴史に係わる論及が多いのだが、紀行文らしい自由闊達な文章も見られる。
「壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費を作ってくれたのは、この島を出た分限者で、島の教育のために、片肌も両肌もぬいでかかっている人である」などと書かれている。こういう熱心で資力のある人が昔はあったということだ。そのお陰で今日貴重な記録が残った。きっかけがそのような事情であったせいもあり、「雪の島」では、温かい視線が壱岐や壱岐の島人に注がれている。
なお、壱岐をなぜ「雪の島」というのかは、折口は作品の中で、船に乗り合わせた男から、
「壱岐の海には、海面に突き出た黒い岩がいくつもあり、それらは頭から三盆白(結晶の小さい上等の白砂糖)でもふりかけたように白くなっている。湯ノ本温泉の沖にあるのがいちばん見事なものだ。このことから壱岐を“雪の島”という」
と聞いたと書いている。
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| 郷ノ浦港のフェリーターミナル |
前ページに登場した作詞家の松坂直美さんは、東京雪州会会長をつとめたという。壱岐出身者の会を「雪州会」というのも、壱岐を雪の島と呼ぶことからきているに違いない。その命名の由来を調べると、
「壱岐の島は古事記の昔から大八州(おおやしま)の一つに数えられ、日本書記では<壱岐の州>または<壱岐の島>となり、いずれも「ゆきのしま」と読ませている。また和名抄には<由紀の島>とも書かれ、万葉集には<由古の島>、姓氏録では<壱伎>と記されている。雪州会の雪は、これら伊岐、由紀、壱伎、壱岐に通じる音字をとったもの。
また壱岐の島の海岸線の白い砂があたかも雪のように見えるところから、昔から壱岐の島を<雪州>と呼んでいたようだ」
とある。連載10回目にして、壱岐のもうひとつの由来を知ることになった。これも折口信夫の導きかもしれない。
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| 博多、壱岐、対馬を結ぶフェリー「ちくし」 |
さて、山をゆっくりと下り、再び郷ノ浦に戻り、郷ノ浦港からフェリー「ちくし」で隣の対馬に向かう。視界から遠ざかる壱岐の島は、どこまでも青い空と、深い青緑色の美しい海に懐かしい姿で浮かんで、少しずつ小さくなっていく。別れがたい甘酸っぱい思いが胸の奥から執拗に立ち上ってきた。何度も何度も来たい島、壱岐。ひとまずはお別れだ、短い別れであることを約束しつつ……。
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| 対馬厳原に向けて進む「ちくし」から見る壱岐。岳ノ辻のアンテナも見えている |
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