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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

壱岐島(10)  text & photo Fumihiro Funaki 2008年2月21日更新
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壱岐最高峰岳ノ辻で見る壱岐の全体像、そして郷ノ浦から対島へ

烽(とぶひ)跡と龍光大神、玄海ワルツ碑

烽(とぶひ)と呼ばれる狼煙(のろし)台の跡

展望台のすぐ近くに、丸く石組みしたマンホールのようなものが見える。「烽(とぶひ)」と呼ばれる、狼煙(のろし)台の跡である。時代は7世紀半ば過ぎ、日本と親交を結んでいた朝鮮半島の百済が、唐と新羅の連合軍に攻められた。支援を求められた大和朝廷は参戦したのだが、663年朝鮮南部錦江の河口、白村江(はくすきのえ)で、大敗を喫する。ここまでは誰もが学校で習った話。そしてわが朝廷は、唐新羅連合軍が日本に攻め込んでくるのではないかと恐れた。そこで、防衛の最前線である壱岐などに防人(さきもり)を配し、狼煙台を設けたのだという。その間の事情を司馬遼太郎はこう書いている


「(白村江の)敗戦の翌年に、対馬、壱岐、筑紫などに防人が置かれ、また敵の水軍が来襲する場合、いちはやく大宰府に急報するために烽(とぶひ、狼火台=のろしだい)が置かれた。

烽は、飛火のことである。昼は煙、夜は炎を用いるとされた。壱岐だけで、北端から南端にいたるまで14ヵ所の烽の台があったという。1ヵ所に10人の防人がいた。その長を火長といった。いずれも東国から徴兵した者たちである。

岳ノ辻とよばれる丘の上にもそれが置かれていた。おそらく常時10人の防人がその番をし、規定どおり、10日に1日休日をとり、3年の徴兵期間中、1日も故郷を思わぬ日がなかったに相違ない。玄界灘の沖に外国船が見え、それが使節船である場合は一炬(いっこ)をあげた。敵がきたと判断した場合は二炬、200隻以上の大船団だと三炬あげた。この火(または煙)は大宰府まで逓伝され、瀬戸内海岸をつぎつぎ火があがって河内・大和の境の高安山の烽に至り、次いで生駒山に飛び、最後に今の奈良公園の一部の飛火野(とびひの)にいたる。」


壱岐、対馬が防衛の最前線であったことは、後のモンゴル襲来の遺跡とともに、この狼煙台にも刻まれているのだ。1300年を超える歳月の雨風に耐えて、ここにじっと埋まっていた石を眺め、そして目を閉じると、東国から徴用されこの岳の辻に駐屯する防人たちの姿が、モノクロ映画のシーンのように、脳裏に浮かんでくるのであった。


龍光大神の鳥居と社

烽跡のすぐ横には白い鳥居と小さな社があって、「龍光大神(りゅうこうおおかみ)」とある。説明札にはこう書かれている。
「龍は神代の昔に日の神・地の神、月の神が龍の背中に乗って天地を駆けこの地球の盛業につくされた、聖なる生きものであり、胴はヘビに似て、4本の足と2本のつのがあり空にのぼって雲をおこし雨を降らすという中国ではめでたいしるしとする動物である。

戦前この場所に龍神を祭ってあったが、戦時中この付近に指令部がおかれた時に東側の見上神社境内に移されていたのを地域有志の人たちの手により元の場所に復活する。平成6年7月17日」

司馬さんが、上代の壱岐の数多い森には、森ごとに神がいた、といわれる神の一つなのであろう。


NHK福岡放送局の送信所もある

展望台からやや下がったところに、3本の大きな鉄塔がある。これはNHK福岡放送局送信所のアンテナだ。ここからなら、平坦な壱岐の島全体、隈なく電波は届くこと間違いない。そしてアンテナの手前に、壱岐出身の作詞家・松坂直美の代表作『玄海ワルツ』を刻んだ詩碑が建てられている。この詩碑は松坂氏の米寿を記念して、壱岐ロータリークラブなどの有志が、1997年4月に建てたものだ。詩碑横の解説によれば、松坂氏は芦辺町深江の出身。壱岐中学卒業後上京して、古関裕而氏作曲「山のあけくれ」などのレコードでデビューし、数千におよぶ作品を残した。日本訳詩家協会理事長、東京雪州会会長などをつとめ、1991年に勲4等を受章された。


壱岐出身の作詞家・松坂直美の「玄海ワルツ碑」

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