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男はもちろん皆殺しだけれど、女子供にも容赦なかったようだね。仕方なくわが子を殺す親はどんなに辛かったろう。妊婦の腹は引き裂いて胎児を殺したというし、捕虜にして連れ帰る女性は、手のひらに穴を開け、縄を通して船につないでおいたらしい」
「う〜ん…、想像以上にひどいわねえ」
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| 緑豊かな田園地帯でも多くの島民が命を奪われた |
「小西さんが、壱岐では“むごい”という言葉も、蒙古軍の残虐さからきた言葉だといわれている、といってたけど、当時の“蒙古”をどう発音したかはわからないが、“モンゴル→むごい”は、ありそうだね」
「でも、むごいことをするのは蒙古だけじゃないわね。これは戦争という特殊な環境に置かれた人間の業みたいなものじゃないかしら」
「いや、まったくそのとおりだと思う。たとえば、元寇からおよそ300余年後の文禄、慶長の役では、日本軍は朝鮮半島で残虐非道の限りを尽くしているのだから。まあ、人間の歴史って、平和な時より戦争状態にあることのほうが多いぐらいで、戦場におかれると、平時には想像もできないような残酷な行為に走ってしまうんだろうね」
「戦争が人間性を破壊してしまう、ってことよね」
「うん、中上さんは蒙古襲来の項の締めくくりで、こんなことを書かれている」
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| 海上から見る芦辺町瀬戸浦。19歳の少弐資時はこの海で討ち死にしたとも伝えられている |
……蒙古襲来に登場する武士団の活躍や、華々しい戦闘場面は史料にも残り、長く語り継がれています。反面、蒙古に追われ逃げまどい、泣き叫んでいる島民の悲惨な光景はほとんど忘れられています。蒙古に生け捕りになり、遠く異境の地に連れて行かれた少年少女の運命など、どうなったのでしょうか。わずかに島に残っている伝承や遺跡によって、苦渋と迫害に満ちた島民たちの歴史をたどるしかありません。
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| 壱岐出身の郷土史研究家、中上史行さんの著書「壱岐の風土と歴史」 |
蒙古襲来は、神風などの力によってこれを防いだのだという誤った歴史的風潮もただしていかねばなりません。(…中略…)蒙古襲来という大事件は、鎌倉幕府が再三にわたる蒙古の使節を問答無用で追い返し、あげくには使節の首を切るという暴挙に出たことから始まりました。蒙古の大軍が押し寄せてくるのはわかりきっていながら、国境の島には何ら防備を強化していません。中央権力は、初めから壱岐・対馬を見捨てていたのです。……
前回に引き続いて、もういちど元寇に触れなければいけないと強く感じ、中上さんの著書を紹介した。なお、前回紹介した小西さんの弘安の役の説明では、守護代少弐資時(しょうにすけとき)公は居城船匿(ふなかくし)城で討ち死にしたように聞きとれるが、芦辺町瀬戸浦の海上で戦死したとも伝えられている。芦辺港の入口にある瀬戸浦の岬には少弐資時の墓がある。
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