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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

壱岐島(7)  text & photo Fumihiro Funaki 2008年1月10日更新
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美しい海を見ながら黒崎半島へ

続・元寇の惨劇

「小西さんは、元寇やフビライの話になると、“傲慢無礼にも”と“あくまで不埒な”を必ずつけるんだねえ、実感がこもっている」
「それだけ悲惨だった、ということでしょうね」
「小西さんの話と、私が事前に調べたところによると、元軍の残虐ぶりは相当なもだったようだね。『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』という14世紀はじめに書かれた八幡信仰の布教用の書物に、元寇について記録されている部分があり、これを壱岐出身の郷土史研究家、中上史行さんが「壱岐の風土と歴史」という著書(自費出版)に引用されている。そこを読んでみると、

……弘安4年5月21日、蒙古の賊船襲い来る。こたびは、蒙古・大唐・高麗以下国々の兵等を駆具して、およそ3千余艘の大船に、17、8万の大衆のりつれてぞ来にけり。その中に高麗の兵船4、5百艘、壱岐対馬より上りて、見かくる者をうち殺し、狼藉す。島民ささえかねて妻子を引具して深山に逃げかくれにけり。さるに赤子の泣き声をききつけて、さぐりもとめて捕えけり。さりければ片時の命を惜しむ世の習い、愛する児をさし殺して逃げかくれするあさましき有様なり。……
湯の本湾を望む美しいこの地に元寇の惨劇が繰り広げられたのだ

男はもちろん皆殺しだけれど、女子供にも容赦なかったようだね。仕方なくわが子を殺す親はどんなに辛かったろう。妊婦の腹は引き裂いて胎児を殺したというし、捕虜にして連れ帰る女性は、手のひらに穴を開け、縄を通して船につないでおいたらしい」
「う〜ん…、想像以上にひどいわねえ」

緑豊かな田園地帯でも多くの島民が命を奪われた
「小西さんが、壱岐では“むごい”という言葉も、蒙古軍の残虐さからきた言葉だといわれている、といってたけど、当時の“蒙古”をどう発音したかはわからないが、“モンゴル→むごい”は、ありそうだね」
「でも、むごいことをするのは蒙古だけじゃないわね。これは戦争という特殊な環境に置かれた人間の業みたいなものじゃないかしら」
「いや、まったくそのとおりだと思う。たとえば、元寇からおよそ300余年後の文禄、慶長の役では、日本軍は朝鮮半島で残虐非道の限りを尽くしているのだから。まあ、人間の歴史って、平和な時より戦争状態にあることのほうが多いぐらいで、戦場におかれると、平時には想像もできないような残酷な行為に走ってしまうんだろうね」
「戦争が人間性を破壊してしまう、ってことよね」
「うん、中上さんは蒙古襲来の項の締めくくりで、こんなことを書かれている」

海上から見る芦辺町瀬戸浦。19歳の少弐資時はこの海で討ち死にしたとも伝えられている
……蒙古襲来に登場する武士団の活躍や、華々しい戦闘場面は史料にも残り、長く語り継がれています。反面、蒙古に追われ逃げまどい、泣き叫んでいる島民の悲惨な光景はほとんど忘れられています。蒙古に生け捕りになり、遠く異境の地に連れて行かれた少年少女の運命など、どうなったのでしょうか。わずかに島に残っている伝承や遺跡によって、苦渋と迫害に満ちた島民たちの歴史をたどるしかありません。
壱岐出身の郷土史研究家、中上史行さんの著書「壱岐の風土と歴史」

蒙古襲来は、神風などの力によってこれを防いだのだという誤った歴史的風潮もただしていかねばなりません。(…中略…)蒙古襲来という大事件は、鎌倉幕府が再三にわたる蒙古の使節を問答無用で追い返し、あげくには使節の首を切るという暴挙に出たことから始まりました。蒙古の大軍が押し寄せてくるのはわかりきっていながら、国境の島には何ら防備を強化していません。中央権力は、初めから壱岐・対馬を見捨てていたのです。……


前回に引き続いて、もういちど元寇に触れなければいけないと強く感じ、中上さんの著書を紹介した。なお、前回紹介した小西さんの弘安の役の説明では、守護代少弐資時(しょうにすけとき)公は居城船匿(ふなかくし)城で討ち死にしたように聞きとれるが、芦辺町瀬戸浦の海上で戦死したとも伝えられている。芦辺港の入口にある瀬戸浦の岬には少弐資時の墓がある。


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