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朝食後、バスは郷ノ浦大橋を渡ってホテルの対岸を進み、中心街を通って北西に向かう。ガイドの小西さんが、塞(さい)神社にお参りしたかと聞く。私たち以外に数人が出かけたようだ。
「なにしろご利益のある神様ですからね、写真はとられましたか? ご覧になった方はきっとますますご夫婦円満、長寿間違いなしですよ」
「男同士で行ったのはどうなるのか、ね?」
素朴な疑問の声に、バスは明るい笑い声に包まれた。なるほど、なぜ小西さんは塞神社にこだわるのか、意外にその方面がお好きなのかなどと思っていたら、このように座を和やかにさせるためであったのだ。
「あなたらしくもない。小西さんにそんな好みがあるわけないじゃありませんか」
「はい、まことに恐縮です」
お詫びの印にここで、司馬遼太郎『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』を少し引用しておきましょう。なんでそれがお詫びになるかといわれても困るのでありますが。
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| 単行本『街道をゆく13 壱岐・対馬の道/司馬遼太郎』(朝日新聞社) |
……郷ノ浦の宿を出発することにしたが、べつにあてはない。とりあえず北をめざすことにした。北端の港町である勝本までゆけば、壱岐のにおいがかげるかもしれない。
途中、すべてが緑野である。丘は無数にあるにせよ、キャンバスに絵の具を盛り上げた程度の隆起でしかない。
途中、山村が見られる。
孤立した農家が、点々と丘の叢林にうずもれて立っている。この壱岐特有の田園風景は、平戸藩が壱岐一島の農地を各戸に平等に配分し、定期的に農地の割替(わりかえ)をしたということでできた。(…略…)このため平戸藩時代、富はほぼ均等であった。厳密にいえば「富は」というより「貧は」といったほうがいい。ただし極端な貧ではなく、江戸期の自作農の平均的な生活水準だったであろう。
ただ耕作権があって、近代的意味の土地所有権はなかった。(単行本89〜90ページ) ……
司馬さんが取材で壱岐を訪れたのは、おそらく1977年だろうと思われる。そのころの壱岐の様子が目に見えるよう描かれているが、昨日から今日にかけて、郷ノ浦界隈を実際に目にすると、ずいぶん違った印象も受ける。なにしろ30年の年月が経過しているのだから当然だが。変わらないのは隆起の少ない、美しい緑野だ。これは壱岐のどこを歩いても感じる。想像していた以上に壱岐は美しい島なのである。
そして、農家も近代化し藁葺きの家はほとんど見られず瓦葺となり、その他の民家を含めての家並みは、大都会やその郊外と変わるところがない。ついでにいえば、貧富の差は拡大しているが、これは日本全国共通だ。
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| 牧崎公園入口 |
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| ゆるやかに起伏があり、緑が柔らかく美しい牧崎の台地 |
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バスは20分ほどで島の南西端の東シナ海に面して突き出した牧崎の岬についた。ここの広々とした緑の台地が牧崎公園だ。周囲は荒々しい玄武岩の崖で、海からおよそ30メートルの高さがある。そんな崖の中に海面近くが海の浸蝕で大きな穴になっているところがある。穴は周囲110メートルもあってトンネルのようにも見える。これが壱岐の景観の一つとして知られる「鬼の足跡」である。
鬼にまつわる伝説は前回も鬼凧を紹介したが、このぽっかりとトンネル状に開いた穴は、壱岐市の案内によると、「デイ」という大鬼が鯨をすくい捕るために踏ん張ってできた足跡で、もう片方の足跡は勝本町辰ノ島の蛇ケ谷にあるといわれている。春分の日と秋分の日は足跡の穴におさまるように夕日が沈むという。 きっと涙が出るほど美しい眺めだろう。
もう1ヵ所面白い岩が海岸に突き出ている。「ゴリラ岩」だ。よく見るとこちらに向かってニンマリ笑うゴリラの顔に似ているのでそう呼ばれている。うん、確かに。
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