おとなのたまり場 > いつでもbon vivant > ゆっくりと島巡り > 壱岐島(1)
ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

壱岐島(1)  text & photo Fumihiro Funaki 2006年8月1日更新

  1頁 2頁

プロローグ

豊かな穀倉地帯と弥生時代の原の辻遺跡

すっかり近代的な装いの院通寺の街並み

院通寺(いんどうじ)の港はほかのどこの島の港にも負けないくらい美しかった。フェリーを降りて海を振り向いて、防波堤の先を眺めると、左手に銭亀崎という岬、やや右手前方には妻ヶ島が柔らかな緑の丘を滑らかな海面に浮かべている。船着場の周辺の建物を視界から追いやると、一幅の水墨画のようでもあり、印象派の風景画のようでもある。


宮本常一さんの『私の日本地図 壱岐・対馬紀行(1976年同友館刊)』や、司馬遼太郎さんの『街道をゆく13 壱岐・対馬への道(1981年朝日新聞社刊)』は、一人の旅人の目に移った壱岐の貴重な記録である。しかし、そこに描かれた壱岐は、宮本さんは1950、51年、62年、72年、司馬さんは週刊朝日の連載が78年の2月からだからおそらく前年の77年のものである。 2人の著書に描かれた壱岐はもちろん、魏志倭人伝、古事記、日本書紀、万葉集などに記された、神話や遠い歴史上の壱岐が思い起こされているものの、大半が2人が訪れたころの自然に恵まれた美しい島のありのままの姿である。そこには第2次世界大戦後の日本全国各地に共通する、あの苦しい復興への戦いぶりも色濃く反映している。掲載された宮本さん自身の撮影によるモノクロ写真や、須田剋太画伯のスケッチには、当時の日本の貧しさ、過酷さを象徴するような光景が生々しく留められているのである。しかし、同じ時期を生きてきた者にとっては、それらは決して目を背けたくなるような悲惨なものではなく、むしろ充実した日々の懐かしい記憶である。なぜかあの時期の日本の空気は、少しほろ苦さは含んでいるものの、母の懐の甘い匂いに包まれるようなあたたかさに満ちていた。


院通寺から北上するとすぐに田園地帯が広がる。長崎県第2の広さの平野「深江田原(ふかえたばる)」。美味しいお米がとれる穀倉地帯だ


「壱岐第一歩の感慨はいかが?」
「う〜ん、久しぶりに故郷に帰った、という気分になるねえ。人間でも20年以上会わなかった人に再会すると、見違えるほど立派になっているんで驚いちゃうことがある。そんな感じがします、この港町の道路や家並みを見ていると」
「落ち着いた雰囲気のきれいな街並みね」
「心のうちのどこかに、麦わら葺きの家でも残っていないかなあ、なんて気持ちもあったんだけど、そんなのはわざわざ記念に遺したもの以外にあるわけないよね。今年はもう2007年だもの…」

深江田原の進行方向右手に見えてきた原の辻(はるのつじ)遺跡の復元小屋
このような小屋が最終的には18〜19棟できるという

壱岐島は壱岐市の資料によると、面積は138.45平方キロメートル、東西約15km、南北約17km、周囲約191kmの円形に近い島である。2007年6月30日現在の人口は31,850人(男性 15,072人/女性 16,778人)、世帯数は11,612。もっとも高い山が、岳の辻で標高213mだから、なだらかな丘と平野の島だ。
「今、私ちょっと変なことに気づいた。日本の島で、2つ対で呼ばれるところがあるわね。利尻島・礼文島、種子島・屋久島、そして今回の壱岐島・対馬島」
「それがどうかしたの?」
「この3ヵ所はみんな、北側の島が細長くて、南の島が丸いじゃありませんか」
「ああ、そういわれてみれば確かにそうだね」
「何か意味があるのかしら?」
「さあね、神様が国づくりをしたときに、細長いほうは慎重に造ったけれど、丸いほうは筆先からうっかりポタッと墨を落としたような具合だったのかもしれない」
「人がせっかく何かの足しになるかと思っていったのに…」


原の辻展示館の案内

院通寺からバスで北へ向かった。今回は奄美大島に行ったときと同じで、クラブツーリズムのツアーに参加する形でやってきた。添乗員は奄美の菅谷えりかさんの同僚で、鈴木正仁さん。バスは玄海交通、ガイドは小西三四子さん。お二人はこれからの連載でゆっくりと紹介する。
街並みはすぐに切れて広々とした田園地帯に出る。長崎県第2の広さを誇る平野「深江田原(ふかえたばる)」である。ここでは良質の米がとれる。小西さんによると、
「壱岐のお米はとってもおいしいと評判で、お土産に持ち帰られるお客様も多いんです。2期作ではありませんが、収穫時に台風の被害を避けるため早めに栽培しまして、お盆過ぎにはもう新米が食べられます。壱岐は長崎県ですが、生活圏としては完全に福岡ですから、本来なら福岡県に所属したほうが自然なんですが、長崎県が手放さないのだそうです。まあ、これは冗談ですが、この豊かな平野があるせいだ、なんて説もあります」
間もなく、進行方向右手に藁葺きの小屋がいくつか見えてきた。「原の辻(はるのつじ)遺跡」の復元小屋である。原の辻遺跡は2000年11月24日、静岡県の登呂遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に続いて3番目に国の特別史跡に指定された。およそ2〜4世紀にかけての弥生時代の大規模な多重環濠集落(たじゅうかんごうしゅうらく)である。


数多くの出土品を展示する原の辻展示館

環濠とは集落を守るための防禦用の濠(ほり)で、東西約350m、南北約850mの楕円形状の範囲を外濠、中濠、内濠と3重に巡らしたものらしい。それで多重環濠と呼ぶ。濠は幅が約2〜4m、深さが約1〜2.5mで、断面がV字形状をしている。外濠で囲む面積は24万平方メートル。遺跡全体の大きさは小西さんによると、「約100ヘクタール、東京ディズニーランドとディズニー・シーランドを足した広さ」ということである。



展示館前の水田では「赤米」が栽培されている

標高8〜17mの丘の上に営まれていた集落には、住まいや祭りごとが行なわれていたと思われる高床の建物があり、それを復元したのが車窓から見えた藁葺きの復元小屋なのだ。小屋は現在もまだ建築中で、最終的には18〜19棟になるそうだ。
「1棟約150万円ほどかかるそうですが、あちらの奥のほうに見える6畳間ぐらいの広さの建物は、単なる休憩所なんですが、なぜか500万円以上もかかったそうです。それを聞いて私、頭が痛くなりました」
と、小西さんは笑いながら冗談めかした口調で、しかし半ば本心を吐露するといった雰囲気を滲ませていった。バスは遺跡の北端部に位置する「壱岐・原の辻展示館」に着いた。バスを降りると目の前に「赤米」が栽培されている田んぼがあり、何人かが声を掛け合って手入れの作業をしていた。

壱岐島、壱岐市については:公式ホームページ
原の辻遺跡、展示館についての詳細は:公式ホームページ

五島列島 福江島マップ
前のページへ戻る   次のページを読む
ゆっくりと島巡り|トップへ戻る 壱岐島トップへ戻る TOPへ