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ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

八丈島(8) text&photo Fumihiro Funaki 2006年8月2日更新

島内一周観光バスに乗る(4)
定年後は再就職せず夫婦で旅をする〜相客は理想の人生を送るご夫婦

路上に停車し、乗客の帰りを待つバスと播磨ドライバー。少し風が出てきて寒くなってきた

登龍峠の絶景を後にして、バスは曲がりくねった山道を三根地区へと下り、昼食会場へと向かった。車内には、軽い空腹感と美しい景色に見ほれた満足感が入り混じった、不思議な沈黙が支配し、播磨ドライバーも無言でハンドルを握っている。ほどなく大きな食堂と土産物屋を兼ねた会場に到着。午後のスタートは40分後。この間に昼食を済ませ、なるべくたくさん土産物をお買いください、という心であろうか。
細長いテーブルに、バスの乗客8人が向かい合って座った。こういう時の対応がなかなか難しい。親しくなりかかっているといっても、4人グループと2人連れが2組。どうしてもその間に垣根が出来てしまって、私と連れはいきおいご夫婦と親しく話すことになってしまう。テーブルには弁当が載っているが、中身はとりたてて説明する必要もない幕の内風。期待はしていなかったから失望はしない。向かい合ったご夫婦と自然に会話が滑り出す。
お二人は一昨日伊豆大島に泊まり、昨日午後のANA便で八丈島に向かった。大島からの便は14時20分発の一便のみである。八丈島上空に差し掛かると、天候のせいですぐには着陸できないので、少しお待ちくださいというアナウンスがあった。強風のせいらしい。しかし、風はなかなかおさまらず、ついに大島に戻ることになった。ところが大島上空も強風で着陸できない。やむなく羽田に戻るという。諦めかけていると、しばらくして八丈島の天候が回復したので、八丈島に戻ることになったという。どうなることかと思ったがやっと3時間以上遅れて着いたというのだ。
「うん、それが島の人のいう大敵“空港周辺の南風”なんですねえ。私たちは羽田を10時30分の便で出て、予定通り11時20分に着陸できました。やはり日ごろの心がけのせいですかねえ。晴れ男ですし、私」
連れはテーブルのしたで、思い切り足を蹴飛ばし、
「申し訳ありません。後先考えずに口走るタイプなもんですから、この人。悪気はありませんので、ほんとに」
「いえ、かまいませんよ、ハハハ。ほんとにそうかも知れません。だって、そちらが空港上空についたのは11時半近くですよね。それからわずか4時間ぐらいでガラッと変わってしまうんですから。旅はこれがあるから困りますね。でも、予定が狂うかもしれないって心配するのは、なんかこう不思議な高揚感がありまして…」
「何をいってるんですか。せっかく八丈島でおいしい魚を食べるつもりが、危うく東京に戻されかけたんですから、楽しくなんかありませんよ」

親しさがぐっと増したところで、正式に名乗りあって、私は名刺を渡した。Iさんは名刺を持ち合わせていなかったので、メモ用紙に丁寧に住所氏名電話番号を書いてくださった。大阪の方であった。
「そこそこの規模の会社に勤めておったんですが、昨年定年になりましてね。いろいろとお誘いがあって、中にはかなり心が動く仕事もあったんですが、残りの人生はゆっくりと旅をして過ごそうと決断しまして、再就職はみんなお断りしたんです」
なるほど、Iさんに泰然とした雰囲気を感じたのは、そういう事情があったからなのかもしれない。しかし、いうは易く行なうは難し。本人はそう決断しても、たいていは奥さんが反対する。現役のころから“亭主元気で留守がいい”と思ってるご夫人が多いそうだし、退職を記念して(?!)離婚なんてのも多いようだ。しかしI夫人は、
「私は楽天的なんでしょうか、最初は多少不安がないではなかったんですが、これから二人で一緒にいろんなところを歩けるのは、とてつもなく幸せなことだ、って思いましたねえ」
「う〜ん、実に素晴らしいですねえ。世の中の熟年夫婦の半分でもIさんのように考えたら、世の中どんなによくなるでしょう」
「あら、Fさんたちも同じじゃありませんの?」
「いえ、私はこの人の奥さんじゃなくて、妹ですから」
「あら、そうでしたの?」
「アハハ、いや〜、その、実は仕事の一部を妹に手伝ってもらってまして、今回も半分は秘書みたいな役割で連れてきたんです」
「あら、そうですか。あまり似てらっしゃらないから、ご兄妹には見えませんわね」
「いや〜どうも。妹は子供のときから可愛いっていわれて、私はただ勉強ができるだけで…」
テーブルの下でまた足蹴りを食らった。

南原千畳岩海岸で、流人第一号、宇喜多秀家を偲ぶ

南原千畳岩海岸。後方の海上には八丈富士がちょっと怖い雰囲気で間近に見える

バスは1時30分に再スタート。メインストリートを東の海岸に向かって進み、神湊漁港を右下に見て海岸線を北に進む。このあたりは昔、流人が島抜けといって、島から脱走を企てた海岸だそうだ。八丈島の流人については、数多くの文献資料があるし、今年は八丈島ゆかりの作曲家、故・團伊玖磨氏のご子息、團紀彦氏原案、奥田瑛二企画監督、松坂慶子、奥田瑛二主演の映画「流人」も上映された。流人については、少し先で宇喜多秀家を偲ぶ程度に留めたいと思うが、この映画で、主人公たちのモデルになった流人が島を脱出したのも、神湊あたりだった。そうそう、佐藤タクシーの佐藤貞愛さんに聞いたのだが、八丈島には現在映画館が1軒もない。いい作品があれば、学校の体育館とか公民館などで上映されるから、そこで見る以外は東京に行かなければならない。「流人」は八丈島が舞台だし、團さんの息子さんの作品でもあるわけだから、きっと何ヵ所かで上映されますよ、と彼は初日にいった。しかし最終日に会うと、少し暗い表情で、「流人」について、
「島では上映できないんだそうです。なんていったらいいのか、う〜ん、子供に見せられないようなシーンがあるらしいんで…」
と、いう。そりゃそうだろう。主人公は花魁(おいらん)なんですからね。しかし、今の子供たちは、その映画のストーリーぐらいは、ちょっと島の歴史を勉強した子なら知ってるはずだし、優れた作品なのだから何とか工夫して見られるといいのだが…。


八丈富士の山麓をはじめ、島のあちこちで目に付くアロエ。食用にも薬用にもなるが、赤い花も鮮やかだ

左手に八丈富士、右手に海岸を見ながら、バスはゆっくりと島の北部を西北方向に曲がって進む。左手の土手にはいろいろな植物が生い茂っている。真っ赤な花をつけたアロエが目につく。播磨ドライバーがいう。
「このあたりの海岸は、土手から急に海に沈み込んでいて、海水浴場以外はかなり危険なところが多いんですけれど、釣り人は怖いもの知らずで朝早くから、この崖をどんどん降りて行っちゃいますね。現実に事故に遭う人が結構いるんですよ。海に落ちますと、海流が速いので泳ぎが達者な人でも助からないことが多くて、中には遺体の上がらない人もあるんです。釣りをされる人はくれぐれも注意してくださいね」

黒々とした溶岩の岩に波が打ちつけ波しぶきを上げる。大ものが狙えるいい釣り場でもある

バスはやがて、島の西側に出て大賀郷地区を南に進む。しばらくすると、黒っぽい大きな岩がごろごろと海岸に向かって転がっている地域に出た。「南原千畳岩海岸」である。さっきまで見た緑と青の世界が、赤黒い道路と岩、岩が押し寄せる海岸、そして青い海という世界に一変する。風が出てきて気温も下がってきたようだ。気のせいではない。すぐ目の前に八丈小島が浮かぶ。これまででいちばん近い距離から見るので、かなり大きく見える。今や無人島となったこの島の姿が、色も暗褐色に沈んで恐ろしい秘密を孕んだ異境に思えてくる。今にもニヤッと冷たく笑って真っ赤な舌を出しそうだ。怖い。


千畳岩海岸の溶岩台地の上を南に整備された道が走り、遠く南には岬「奈古の鼻」が見える

この黒っぽい岩石はかつて八丈富士が噴火をした時に流れ出した溶岩が、海水とぶつかって固まったもので、主に玄武岩だ。海に沿って約500メートル、幅はおよそ100メートルの範囲に、まさに千畳敷と思われるように広がっている。一帯は公園になっていて、波打ち際まで行ける。この日の海はさほど荒れているわけではないが、浸食され鋭く荒れた岩肌に波が打ちつけて、時折大きな波しぶきを上げている。しかし、ここはいい釣り場だそうで、シマアジをはじめ、大物が狙えるそうだ。

宇喜多秀家、豪姫の坐像。遥か遠くの備前の国を見つめているようだ。実際には島に流されて以来2度と会うことのなかった二人が、400年の時を超えて再会したわけだ

この南原千畳岩公園の南端から100メートほど先に、まるで雛人形のお内裏雛よろしく、男女一組の石造り坐像が、じっと海を見据えている。道路側からは後姿しか見えないが、その視線は西北西の遥か彼方、備前(岡山)に向けられているようだ。この人物こそ、関が原の天下分け目の戦いに敗れた西軍の副将、宇喜多秀家であり、女性は、秀吉の五大老の一人前田利家の四女、豪姫である。戦いに敗れた秀家は、本来なら石田三成と同様に、晒し首になるはずであったが、薩摩に逃れた。そして、島津家と前田家、さらに秀家の母、円融院お福の尽力により、そしておそらくは家康の深い企みが加わって、死罪を免れ八丈島へ流罪となったのである。
「当時の八丈島への流罪といえば、死罪にも等しいって感じだったんでしょうね」
「そうだろうね。普通の罪人ならともかく、備前美作57万石の国主、宇喜多中納言秀家ですからね。この島にきちゃったら、ただのハンサムな役立たずに過ぎない」
「ハンサムだったの?」
「眉目秀麗、並ぶものなき若武者だったそうだよ。あの秀吉が彼に目をかけて、無理やり養女にして溺愛した前田利家の四女豪姫と娶わせたんだから」
「でも、それが運命の分かれ道だったわけね。戦では先見の明がないから西軍の大将になったんでしょう?」
「いや、それがさ、歴史に“たら、れば”は無用ではあるけれど、ほんのちょっとしたことがあって、つまり小早川秀秋の裏切りだけれど、かろうじて勝利は東のものになったんだが、もしそれがなければさ、秀家が家康の立場になっていたかもしれないさ」
「そうかなあ。でも豪姫って、たしか流されなかったんでしょう?」
「うん、本人は一緒に来たいと本心から思ったそうだが、前田家が許すはずがないし、さすがの家康もそこまでは甘くないさ。男の子2人は一緒に来たんだが。でもね、この石像は1997(平成9)年に、秀家の岡山城築城400年に合わせて、心温かい人々が約400年後に2人を再会させ、永遠に離れられないようにしたってわけだ。う〜ん、ロマンティックないい話だなあ〜」
「相変わらず甘いわね。でも、昔の武将の子供たちって、自分の思うようには生きられなかったんだから、可哀想ではあるわね」
「そうだよ、二人は1589(天正17)年、秀家17歳、豪姫15歳で結婚して、仲がよくてさ2男1女を授かる。しかし八丈島に流されたのは1606(慶長11)年だからね。その結婚生活は事実上わずか17年ほどしかない。戦の時間と敗戦後の逃亡の時間を差し引いたら、もっと短い。12年ぐらいのものかね」
「でも、秀家ってこの島で長生きしたのよね」
「あまり正確じゃないけど、約50年ぐらい生きて、ということは34、5歳できたんだから、84、5歳、一説には92歳まで生きたっていわれている。豪姫は1634年、61歳で前田家で亡くなってるんだが」
さて、バスはいよいよ中心地に戻って、見学は「八丈島民俗資料館」と「八丈ビジターセンター」の2ヵ所となった。


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