おとなのたまり場 > いつでもbon vivant > ゆっくりと島巡り > 五島列島 福江島(9)
ゆっくりと島巡り 案内人 船木文宏

五島列島 福江島(9)  text&photo Fumihiro Funaki 2006年12月20日更新

  1頁 2頁

美しい海岸再び、そして遣唐使ゆかりの地

柏崎の岬、遣唐使ゆかりの地に立つ

空海と遣唐使に思いをはせる荒尾船長(左)と原塚案内人(右)

日本一といわれる美しい渚の光景に別れを告げ、荒海と遣唐使に思いを寄せつつ車は北上し、福江島の西北端の岬、柏崎に向かった。
「おっ、灯台が見えてきましたね」
「柏崎灯台ですね。資料によりますと、1956(昭和31)年に設置されたもので、コンクリート造り、高さは15.51メートル。光度は8,500カンデラ、光は27キロ先まで届くそうです」
と、原塚さん。
「玉之浦の大瀬崎灯台はたしか200万カンデラでしたね。やっぱりあちらは日本一だけあってすごいわね」
「そうですね、大瀬崎灯台は50キロ先まで光が届くそうですから」


(大瀬崎灯台については、本稿第6回「大瀬崎灯台を展望台から見下ろし、海上から見上げる」を参照)

空海と遣唐使ゆかりの柏崎の丘
ぽっかりと海に浮かぶ「姫島」

車を降りると、岬の突端は断崖絶壁ではなく、小高い丘といった感じのやさしい草地の「柏崎公園」になっている。灯台の先に、丸いお椀を伏せたような形で浮かんでいるのは、その名もやさしい「姫島」。柏崎は三井楽町という地域に属しているが、姫島は右隣の岐宿町の所属となっている。1ページ目で話題にした「千鳥姫観音」の島かと、一瞬思ったが、原塚さんが訂正してくれた。
「あの観音様はここの後で行く三井楽の魚津ヶ崎の近くにある白石の海ですから、この姫島とは違います」

「なるほど。しかし、五島の人はお姫様がお好きなんですね、きっと」
  柏崎灯台
「辞本涯」の石碑の横に
立つ修行僧の石像
  美しい柏崎灯台
「姫もそうだが、詳しい地図をみると、姫島の北端は観音崎だそうだから、観音様も好きなんだね、きっと」
「五島というとキリスト教ってすぐに思うけれど、今朝見た空海さんの大宝寺もそうですが、観音様やお地蔵さんがたくさんあって、仏教とも関係が深いんですね」
「そりゃ、君、お釈迦様はキリスト様よりはるかに先輩ですからね。日本に伝わったのだって仏教がずっと早いわけだから当然ですよ」
「そんなエラソーにいわなくても…」

空海を記念する「辞本涯」の石碑

この丘で最初に目に入るのは灯台だが、ここは何といっても楕円形の石に大きな文字で「辞本涯」と書かれた石碑である。これは空海にゆかりの言葉で、日本のさいはての地を去る、というほどの意味で、空海の書「遍照発揮性霊集」からとられた。書は高野山清涼院住職の揮毫による。建立したのは、旧福江市在住の三井楽町人会の有志の方々だそうだ。空海の遺徳を顕彰するためと同時に、遣唐使と五島の深いかかわりを記念する意味もあるという。

この石碑と旅の修行僧の像の間に、もう一つの石碑があり、そこには五島市在住の歴史研究家、的野圭司(まとのけいじ)氏の「辞本涯」の碑に寄せて書かれた説明が刻まれている。的野さんにはお目にかかる予定もあり、五島の歴史についてご教示願うことになってもいるので、ここに引用しておくことにする。


「辞本涯」石碑と修行僧石像の間におかれた的野圭司さんの解説
「本涯を辞す」の碑に寄せて

古代五島列島は中国渡航の要衝の地でした。

中国唐の文化や古代オリエントの国々から、ラクダの背に揺られてシルクロードを通って、唐の都長安へと伝わって来た文化は、さらに遣唐使によって日本に運ばれて我が国の奈良平安時代の政治文化宗教に大きな影響を与えました。

この遣唐船が当時値嘉島(ちがのしま)と呼ばれていた五島列島で順風を待つために寄泊するようになったのは、奈良時代の終り、宝亀八年(七七七年)の第十四次の遣唐船からでした。

造船の技術、航海術ともに幼稚だった当時、中国に渡ることは大へんな冒険で、それこそ決死の覚悟が必要でした。五島までは来たものの、どうしても中国へ出航する勇気がなく、「順風を得ず」と京の都へ引きかえした遣唐大使もいました。

第十六次(八○四年)の遣唐船で留学僧として入唐した弘法大師空海の「遍照発揮性霊集」に「死を冒して海に入る。既に本涯を辞して中途に及ぶ 此に暴風帆を穿って戦風舵を祈る。・・・浪に随って昇沈し風に任せて南北す。但大水の碧色のみを見る。・・」と死を賭しての中国渡航の情景が書かれています。

ここ柏の岬を過ぎますと、これから西には日本の領土も島もありません。遣唐大使も、最澄、空海も留学生、留学僧、乗組員の皆が今生の見収めになるかも知れない、祖国最後の地、三井楽の島影を船べりから身をのり出すようにして、瞼の裏にしっかり焼付け、運を天にまかせて、東シナ海に乗り出して行ったに違いありません。それはまさに「本涯を辞す」―日本本土の涯を去る―の感慨そのものであったでしょう。

この草原に立ち縹渺たる西方の大海原を眺める時、私たちはこれらの人たちの勇気には全く頭の下る思いがします。

この碑は唐に使いした人たちの偉業を偲び、又遭難して再び日本の土を踏むことができなかった人たちの鎮魂の碑としても、いつまでも心のなかに残していただきたいと思います。
                         五島文化協会 的野圭志

 
「遣唐使」は全国どこの小学校でも学ぶ歴史上の大トピックスのひとつだが、学校ではその詳細について教えられることがなかった。私の記憶では、高校の日本史でも遣唐使に関する授業はごく概略的でしかなかったように思う。五島訪問をきっかけに、いろいろ調べてみると、授業の内容が貧しかったのは、先生にも問題があるが、同時に遣唐使そのものにもあることがわかった。

そもそも資料といっても、今日書店で入手できるものには限界があり、専門的なものは研究範囲が狭かったり、記述が一般の人には歯が立たないようなものが多い。また入門書的なものは、簡単すぎて隔靴掻痒の感を否めない。

なにしろ「第○次遣唐使」という「次数」からして混乱しているのだから困る。たとえば、五島市の旅行者向けガイドブックの「辞本涯」の項には「804年の第16次遣唐船」と書かれているが、最新の研究書「遣唐使全航海」(上田 雄著、2006年12月4日草思社発行)によれば、この遣唐使は「第14次」である。しかし、東野治之著の「遣唐使船」(朝日選書、1999年9月25日朝日新聞社発行)によれば「第18次」となっている、という具合なのである。

またその詳細な航路も明らかではない。さらに、遣唐使船の大きさや形もはっきりしない。帆船であることは間違いないが、人力による艪は使わなかったのかどうか、これらを明らかにする資料もないようだ。

的野圭司さん

航路については、五島の人にも重大だが、歴史の事実としても何とかはっきりさせなければならない。結論からいえば、上田氏の説による777年の第12次以降の航路は、いわゆる「南路」であり、五島を経由していることは間違いないようだ。しかし、正確な場所の特定には問題がありそうだ。後日お目にかかった的野さんも、「続日本紀」を広げながら、

「どうも寄泊地については、現在の定説を修正しなければならないかもしれません」
と、語っておられた。

せっかく五島にきたのだから、遣唐使についてはもう少し調べてみたいと思う。

さて、万葉集である。柏崎公園の一角に単なる説明書きのような立て札があり、万葉集に歌われた遣唐使に寄せる歌が紹介されている。その歌は「巻9」にあるもので、ここでは折口信夫の表記に従って引用しておこう(折口信夫全集第4巻、1966年発行中央公論社版)。


天平5年、遣唐使の船が難波を出て海路につく時に、
某の母が其子に与へた歌。並びに短歌


<1790番>

秋萩を妻問ふ鹿こそ、独り児に子持たりと言へ。
鹿児じもの吾が一人子の、草枕旅しに行けば、
竹玉を繁に貫き垂り、齊瓮に木綿取り垂でゝ、
齊ひつゝ吾が思ふ吾子。まさきくありこそ


本文中に引用した万葉集1791番の歌を刻んだ記念碑

反歌
<1791番>
旅人の宿りせむ野に、霜降らば、
吾が子はぐゝめ。天の鶴群


立て札はこれを引用して、「空高く旅する鶴たちよ、霜降る野に眠るわが子を見たら、どうぞその羽で包んで暖めておくれ、とわが子の無事を願う母の心が“辞本涯”の地に立つと、さらに感慨深いのである」と書いている。なお、天平5年は783年。そして、この反歌が中国の駐長崎総領事の揮毫で刻まれた石碑もこの丘にある。
(この項続く)

五島列島 福江島マップ
前のページへ戻る   次のページを読む
ゆっくりと島巡り|トップへ戻る 福江島トップへ戻る TOPへ