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| ソテツの幹に小さな葉(新芽)が出る。これを取って植えると独立したソテツが育つが、一般家庭ではなかなか難しい |
「上原さんにもらったソテツの小枝、その後どう?」
東京に戻って2か月ほどたったころ連れ合いに訊いてみた。あやまる岬のソテツ群生地で、ガイドの上原さんが、ソテツの幹から出ている小枝をもぎ取ってくれたのである。生命力が強いから育ててみてください、といわれて同行5組全員が1本ずつもらった。
「1ヵ月ぐらいは何とか元気だったんだけれど、その後はどうやってもダメ。枯れちゃった。やっぱり土が合わないのね」
「鉄分が必要だから、釘を入れるといいっていってたけど」
「ちゃんと入れたんだけれど、うまく行かない」
「残念だったなあ。でもうまく行っても成長が遅いんだよね。たしか30センチぐらいになるのに数年かかるといってた。死ぬまでにどのぐらい大きくなるのか楽しみだったんだが」
「まあせいぜい、孫の成長でも楽しみにしてください」
奄美で見ると逞しく、どんな土地でも育ちそうに見えたが、やはりソテツは南国のものなのだろう。庭の片隅のしおれたソテツの残骸に水をかけてやった。

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| あやまる岬から南下すると左手には太平洋が視界いっぱいに広がる。珊瑚礁の青い海と白い砂浜がつづく穏やかな海岸だ |
さて、あやまる岬から海岸線を南に下って、龍郷町へ向かう。左手は土盛海岸、大瀬海岸、空港へと続く太平洋の海岸である。初日到着早々昼食をとった「ばしゃ山」のある、ばしゃやま海岸まで、太平洋の青く輝く珊瑚礁の海である。海岸は白い砂浜。海水浴、潮干狩りでシーズンは大人気の一帯だ。リーフの向うは青の色合いが深まって所々に小さな波頭が見える。手前の穏やかな浅瀬との対照が鮮やかだ。こんな海にプカリプカリと浮かんでいられたら、すべての俗事を忘れることができるかもしれない。
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| 龍郷湾の最深部。干潮時で船が砂に取り残されている |
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| 山道から見下ろす美しい龍郷湾。この海面の色の美しさ、形容の言葉も無い |
ほどなく赤尾木海水浴場を左前方に見ながら、バスは右に曲がり国道58号線に出る。この赤尾木地区は、中年女性が羨むほど細くくびれて、南側の太平洋と北側の東シナ海が間近に迫っている。東シナ海は龍郷町の北の先端「今井崎」と笠利町の西北端の「蒲生崎」から深く切れ込んで「笠利湾」となり、そのいちばん南側の奥まったところが赤尾木地区なのである。赤尾木湾は元々隕石が落下して出来た直径約3キロメートルのクレーターといわれ、「奄美クレーター」と名づけられている。今は遠浅の波静かな海岸で、海水浴はもちろんだが、毎年ここを会場にして、奄美レディストライアスロンやウィンドサーフィン大会が開催されているそうだ。
バスの窓から見る東シナ海は、太平洋とは相貌を一変して、深い緑色を帯びて湖のように広がっている。この対照的な景観を右に左に見ながら進み、やがてバスは右に曲がって県道81号線を北上する。ここから右手に見える海は東シナ海。笠利湾の西部に深く切れ込んだ龍郷湾である。山道から見下ろす龍郷湾の海は、周囲の山並の緑を映し込み、深い青緑色をしている。海水の深さと陽射しの違いに色調を精妙に変化させる海面の美しさは実に神秘的。車中の誰もが言葉を失い、ただ感嘆の溜息をもらすばかりであった。
ほんの少し前に見た珊瑚礁の明るい紺碧の海と白い砂浜も海なら、いま目にしている湖のような青緑色の海も、また海である。その対照的な美しい海を両側に接近してもつ奄美大島北部のこの地域は、まさにどんなことがあっても守らなければならない、まるで奇跡のように美しい自然の恵みではないか、そんな思いに人を導く。
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| 山道の脇にはサクランボが可愛らしい実をつけ始めていた |
龍郷湾は自然の良港で、この湾をもつ龍郷町は経済的にも重要な役割を果たしているが、また古くから歴史と伝説に彩られているところでもある。もっともよく知られているのが、西郷隆盛の詫居(たっきょ=罪を受けて流された住まいのこと)地であったことだ。
西郷隆盛は実は奄美には2度流されている。1度目は、1859(安政6)年、薩摩藩の怒りをかって流されたこの地、龍郷町で、3年2か月ほどの年月を暮らした。西郷は島の娘、愛加奈と結婚した。西郷33歳、愛加奈23歳であった。二人の間には、男女二人の子供が出来た。西郷は島の人々の相談にのったり、子供たちに学問を教え、愛加奈は大島紬を織るという穏やかな日々を過ごしていた。
しかし、1861(文久元)年に薩摩藩への召還命令が下り、西郷は家族を残して藩に戻らなければならなかった。後に、島妻制度の掟に従い二人の子供は西郷本家に引き取られ、愛加奈が一人謫居の家に残された。哀れなことである。
さらに、西郷は藩に戻った4か月後に、今度は藩主島津久光の怒りを買い、2度目の奄美配流となる。しかし配流先は龍郷ではなく、徳之島に93日、沖永良部島で1年7か月を過ごしたのである。愛加奈と一所に暮らすことはかなわなかった。ここでも西郷は島の人々と親しく交流し、島民に教育文化面で大きな影響を与えたという。
ところで気の毒な愛加奈は、静かに余生を送り1902(明治35)年、65歳で亡くなった。龍郷の謫居跡には、当時の木造家屋が復元され、1898(明治31)年に勝海舟の筆による記念碑が建てられた。庭には西郷手植えの桜の木があり、邸内には西郷自筆の書や、愛用の机、枕、食膳などが公開されている。なお、見学には予約が必要だ(※1)。
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