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その例として、私が体験したある出来事にこのテーマを探る手がかりがあると思うので、個人的な事柄ですがあえて書いてみましょう。
私は、毎日朝夕1時間ほどの散歩をしていますが、その散策路は川の岸にそった道で、犬を連れた人や、ジョギングをする人たちがやってきます。とくに整備されたわけでもなく、雑草の生えた砂利の道です。その散策路の途中に水溜りがあって、いつも避けて歩いているのですが、たまたま、ある秋の夕暮れに、その水溜りがいつもとは違った印象で私の目にとびこんできました。
薄暮の中に、夕焼けの空の色を映して鏡のように光っている、その水のオレンジ色が、幼い日の記憶に刻まれた母の呼び声となって、こだまのように聞こえてきたのです。胸に熱いものが去来します。
だがそんな温もりの風景もすぐに消えました。少年の自転車がその鏡を2つに割って過ぎる。タイヤが水をはねる、「ア、イタ−ッ!」おもわず声が出てしまいました。私は、水溜りからダブルパンチをくらってノックアウトされた気分でした。
その時から、水溜りは私にとって身近な存在となります。散歩の時は決まって眺めます。冬の寒い朝、水溜りは氷が張って不思議な紋様を描いたりもします。そこから、「水ってなんだ!」と想いはめぐり、あらぬ方向へ飛び火して、そばを流れる川の水面を覗き込んだりしていました……。
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散策路の水溜りは今も私のそばにある。 |
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散策路の水溜り―冬の朝。 |
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話の概要は以上ですが、このとき私が切実に感じたことは、風景にかぎらず、身近な愛着のある場所、家の中、周辺など日常慣れっこになってしまった対象が、ほんとうは見えていないのではないか、見ることを放棄しているのではないか、日々イメージの洪水に溺れてしまって、対象が発信するさまざまなシグナルを感じ取る力が麻痺しているのではないか、こんな不安の心でした。
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