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「南房総に、菜の花やポピーを撮りに行きませんか。きっと、きれいな黄色が一面に広がっているでしょうね」
そういって先生を誘惑し、今回は電車に乗ってはるばる南房総を訪れた。東京でも梅が終わった後、あちこちでいろんな花が咲き始めている。各地で桜の開花情報もそろそろ聞こえ始めた。
写真を始めたのは昨年、遅咲きの桜が散り始めたころだったから、ほぼ1年になろうとしている。
1年たって、私の写真術は進化したのだろうか。日常的な行動の中では、これはきれいだとか、ここは写真に撮りたいとか、こう切り取ればいい画角になりそうだとか、気分は典型的な写真愛好家になっている。だが、目標とする気持ちのいい写真が撮れるようになっているのかと自問すると、はなはだ心もとない気がする。気持ちのいい写真が撮りたければ、そういう主題を探して、画面に気持ちよく写すことができなければいけないのだろう。
写真は心を映すといわれる。私の写真はまだとてもそんな段階ではないのだが、ひとつだけ思い当たることがあった。それは、画面の中のジャマモノに気づいていないということだ。
最近、「アングルとポジション」、「背景を画面にどう取り入れるか」という2つのテーマで写真を撮ってみて気づいたのだが、主題の周辺の枯れ枝やゴミが写っていたり、写したくない看板や道路標識が入っていたり、主題を表現するうえでジャマなものが写っていることが何回かあって、それに気づいたころからぼんやり意識し始めたことだった。
私の写真は「気づきさえすれば除外して撮るのに、見えていないものがあるから写っている」ことをしっかり表現している。ファインダーをのぞいていながら見えていないのだが、写真には写っているものがあるということだ。いいかえれば、主題だけしか見ていなくて、画面全体をつぶさに見ていない結果が写真に表れている。ファインダーをのぞいているが、見えているのは真ん中と画面の枠だけで、主題と外縁部の中間が視野からスポッと抜けていている。全画面を細かく確認していないのだ。
背景の選択とは、技術的にはさまざまなテクニックがあると考えられるが、それと同じくらい画面を精査して、表現上無駄なものはないかよく調べるプロセスを重視したい。
今回は、それを意識しながら南房総の撮影に取り組んでみよう。
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