| 何をどう撮るか。写真を始めてすこしばかりわかってきたころ、誰もが直面する課題だという。きれいな景色を撮るだけでは詰めが甘くなるのだ。 |
前回の写真塾では、モチーフの足し算と引き算で構図を決めていく考え方を学んだ。だが、モチーフを選ぶ過程をもっと深く考えたほうがいいのではないかと思う。 最初のうちは、何かを見て、「あ、きれいだ、パシャ!」と撮っていた。そのうちに、「きれいだけでいいの?」という疑問が出てきた。きれいだと思えるのはなぜかと、突き詰めて考え始めたのだ。 「どうしてきれいだと思うのか?」と自問してみると、そこにはあまり深い意味がないことが多かった。たとえば、ある場所の風景を見てきれいだと思っても、なにが? どれが? どうして? と追求していくと、それは感覚的な情緒だけで、ほかに何もないことが多かった。 写真を撮り続けているうちに、「なにが? どれが? どうして?」という問いに答がはっきり出せることが増えてきたように思う。それは、「その場所やモノと時間や空間を共有していることが気持ちいい」であったり、「過去に気持ちよかった記憶を類似物として再現したい」であったり、「あるべき姿、あってほしい姿の表現」であることが多い。 単純だが、自己流の美意識が確立し始めて、自分なりの「美しいもの」、「美しいと感じる基準」がはっきりしてきたと思えるようになった。 「きれい」と「美しい」の間にある写真表現の感性をもっと鍛えていかなくてはいけない。そうすることで、自分にとって何が大切なのかという視覚を通じた自己確認ができるのかもしれない。 今回は「秋を撮るワザ」ということで、鎌倉を撮影地に選んだが、時期がやや早すぎて紅葉は半ばといったところ。予習、復習として井の頭公園、小金井公園も追加した。 今年の秋はあざやかな色を見せずに終わりそうだ。紅葉は寒暖の差が大きいほど美しくなるという。暑い夏からつづいた初秋の暖かさが災いしているのだろう。 しかし、色が浅くても黄色や紅に木々が染まる四季の移ろいは、何ものにも替えがたい日本の風情だ。 もう40年以上も昔のことだが、もの思いに耽る高校生だったころ、学校の近くの神社に歌碑があって、そこにアララギ派の歌人川崎杜外の歌が記されていたことを思い出した。 野の草の色づき枯るゝさまみれば |
| 「先生、最近は目が写真の構図を意識するようになったようです」 「ほう!」 「世間がフレームでくくったように四角に見えるんですよ」 「相当、写真にのめりこんでいますね。でも、それはいい傾向ですよ」 「それなのに、ショット数が以前より減ってきているんですが、なぜでしょうか?」 「モノをよく見るようになったからです」 「よく見ると、撮らなくなる?」 「そうです。最初のうちはシャッターを切ることが楽しくて、好奇心から何でも撮ってしまいます」 「そうでした……」 「そのうちに、これは写真になるか? と考え始めます。ショット数が減るのはここからです」 「そうでした……」 「その次の段階では、画面いっぱいにモノを入れて、盛りだくさんな写真を撮ります」 「そうでした。足し算ですね……」 「次に、整理することに気づきます」 「そうでした。引き算ですね……」 「はい。そして、ようやく自分が本当に撮りたいものは何か、というところにきます」 「そこで迷っているんですよ、じつは……」 「ここからが写真のおもしろいところです。着実に進歩しています。しばらく迷ってください」 「でも、迷いたくはないんですけれど……」 「自分の写真が撮れるのはここからですよ。がんばって!」 「はい!」 |
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紅葉の撮り方がわからないので、疑問点をはっきりさせるため、井の頭公園へ出向き、自習をする。紅葉といっても、赤も黄色もあるし、葉だけではなく、木も空も撮らなくてはいけないし、それだけでは観光写真になってしまいそうだし、人を入れるとむずかしくなる。 あれこれ考えても仕方がないので、とりあえず紅葉を撮ったよくある風景を真似て撮ってみることにした。もちろん、何を美しいと感じたかをはっきりさせながら撮った。
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